「当たり前フィルター」を取り除いて「丁寧な暮らし」について考える
日々の生活において、普通なら見過ごすような小さな出来事でも、ひとつひとつ丁寧に拾っては、考え、思いやれる人がいる。
「あなたは、何でみんなにそんなに優しくできるんですか?」
と聞くと、
「年齢を重ねて経験を積んできたからだよ」
と返事をくれた。
しかし、同じ年齢を重ねていても、その人のように思いやれる人、そうでない人、気づける人、気がつけない人といる。その違いは、どこで生まれてしまうんだろう。
その人は「年齢」と答えてくれたけど、むしろ、人というのは、経験を積めば積むほど、日常の様々な事柄を
「当たり前フィルター」
を通して、見るようになってしまう。
「やって当たり前」「してもらって当たり前」
そんな意識下で、物事と向き合うようになっていて、そうした視点が、相手、そして自分自身を苦しめる材料になってしまってるのではないか。
ではなぜその人からは、そのフィルターを感じられないんだろう。
その人は今までも、自分より相手の気持ちを優先するあまり、自身の心はいつもどこかに置きざりにしてきたのかもしれない。
常に、相手ファーストで考える、その能力を習得した結果、どんな状況でも自分のことはおざなりにしてしまうクセがついてしまったのかもしれない。
今までたくさんのことに揉まれて傷ついてきて、どんなに自分が苦しい状況の中でも、相手を思いやり、手を差し伸べる、その上矢印は自分に向けて、自身を責め続ける、
そんな自己犠牲的な人生を、逃げることなく、一歩一歩丁寧に、これまで歩んできたのかもしれない。
その人を見てると、日々丁寧に生きてるなあと感じる。「丁寧な暮らし」と聞くと、お部屋が片づいてて、スローペースな心地よい生活、みたいな雰囲気を想像するけど、私が目指したい「丁寧な暮らし」は、その人のように、日常に転がっている、小さな出来事や、誰かのちょっとした「動き」に気づき感謝できる優しい生活。感謝、とまではいかなくとも、日々の気づきを日常に落とし込める生活。誰かひとりでいい、人を想い、思いやれる、そんな日々が築けたら、きっと日常にもっと鮮やかな彩りが生まれてくれるのかもしれない。
だけど、その人にはもう少し、ほんの少しだけでいいから、みんなを守るためにきゅっとかたく縛ったその紐を、そっと緩ませて、ホッとひと息、ついてもらいたい。