日常に「遊び心」を…
幼い頃、私は日常の至る所に「遊び」を生み出すことが得意だった。
暇ができようものなら近くにあるもので工夫をして何かしらの「遊び」を見出した。
例えば、均等に窪みのある平たいクッションをたこ焼き器に見立てて、夢中で焼く真似をしては時間を過ごした。
絵を描くことができる曇りガラスを見つける度に、胸が踊った。
カメラやパソコンなどの電化製品に憧れて、紙で模倣品を作ってはひとり、楽しんでいた。
動物は苦手だったものの犬の散歩に憧れて、紙で作った犬に紐を付けては、部屋中それを連れて歩いた。
美容師さんに憧れた時には、ロングヘアの人形を自作して、ヘアカットに熱中した。
当時の私は、どこか無敵だった。
憧れたものは、全部自分で作ることができた。
それらはどれも自己満足の世界だったけど、当時の私にはそれが幸せだった。時間があれば、どんなものでも「遊び」に変えることができた。たとえそれが「本物」でなくとも、そこは重要じゃなくて、私はあらゆる「ほしいもの」をオリジナルで作り出しては楽しんで、それで十分満足していた。
「無」から「有」へ、どんなものも、本来の用途ではなく別の「楽しみ方」を独自に続々と編み出すことができたあの創造性は、大人になるにつれていつのまにか消えていってしまった気がする。
普通の人なら見落としがちな「こと」や「もの」に、目を向けて、元の素材を活かしつつも、新たな命を芽吹かせる。→先入観を捨てて、新たなスタートを切る手助けをする。
お金を出せばすぐに手に入る物も、あえて自分で作ってみる。→その過程を楽しむ。
そんないわゆる「遊び心」は、いくつになっても持ち続けていたいなあと思う感性のひとつだ。
日常で「気づき」に気づくことができるのは、他ならぬ私自身。何を拾ってそれを「気づき」とするか、それは自分次第。
そんな、本当はそこら中にころがっている「何か」に気づける感性こそ、生活を豊かに彩るコツ、なのかもしれない。