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哲学日記・メモ

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#哲学

雑考・日記・メモ「雑草と言う草はない のかもしれない のだけれども」

雑考・日記・メモ「雑草と言う草はない のかもしれない のだけれども」

雑草と言う草はない のかもしれない のだけれども

雑草と言う草はない、と牧野富太郎は言ったけれども、雑草と言う草はある。それは有用な野菜や観賞植物に対する、その他もろもろの雑草として在る。「野菜・観賞植物 対 雑草」と言うステージでは、雑草というカテゴリーは対立項として不可欠だからだ。
ではそう言う有用性のステージではない、共同のステージで雑草と言う草は無いのだろうか?そう、確かに無いのだと思う

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哲学・日記・メモ「『二元論の克服』から『二元論への問い』へ」

哲学・日記・メモ「『二元論の克服』から『二元論への問い』へ」

「二元論の克服」から「二元論への問い」へ

「二元論の克服」は多元論に収まるような多元性によっては成らないのだと思う。多元性は二元性の調停の役割を担うだけであるだろうから。それは「調停」でしかない。さらに言えば「二元論の克服」は、その「克服」が何を意味するのかが「本当の意味で」理解された時に、それは「二元論そのものに内在する二元性そのものへの問い」となる。「克服」の次のステージは「一元論」や「同一

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哲学・日記・メモ「貨幣の事あるいは物々交換の事」

哲学・日記・メモ「貨幣の事あるいは物々交換の事」

貨幣の事あるいは物々交換の事

「貨幣においては、商品の一切の質的差異が消失するのであるが、同じように、貨幣の方でもまた、急進的平等主義者(レヴェラー)として、一切の差異を消滅させる(『資本論』)」 。

貨幣は質的差異に量的な基準を与え、差異を消失させる。そしてこの差異の消失は、等価交換という幻想を可能にする。交換は等価だから為されるのではない。むしろ等価であるならば交換は為されないだろうから。

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哲学・日記・メモ「憑依≠調和≠制作」

哲学・日記・メモ「憑依≠調和≠制作」

憑依≠調和≠制作
私はアートは好きだけれども、創るという行為は「好き」とは必ずしも言えない。「創る」とは、そんな事したくなくても「創らずにはいられない」からである。
アートが好きと言う人と、何か創らずにはいられない人、とは似ているようで全然違うのだろう。アートが好きな人は往々「自分にない何か」を求めて、それをアートに仮託する。その結果アートやアーティストをミューズとしてしまう。そこには偶像がどうし

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雑考・日記・メモ「グスタフ・クリムトとレオナルド・クレモニーニ」

雑考・日記・メモ「グスタフ・クリムトとレオナルド・クレモニーニ」

グスタフ・クリムトとレオナルド・クレモニーニ

19歳だったか20歳だったかの頃。

今は無き池袋のアート専門書店ARTVIVANTにて、一目ぼれして購入したのが、レオナルド・クレモニーニの画集でした。当時2万5000円くらいしましたが、思い切って買ったのです。

クレモニーニは今ではほとんど忘れられていて、アートシーンでで語られることはないんじゃないかと思うのだけれども、私はもっと語られてもいい

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雑考・日記・メモ「真善美のメタメタとしての中村宏イズム」

雑考・日記・メモ「真善美のメタメタとしての中村宏イズム」

雑考・日記・メモ「真善美のメタメタとしての中村宏イズム」

芸術は、真善美を志向するアート(技術)である、と言う通念にはさほど魅力を感じない。そして、しかし芸術は、偽悪醜をして真善美に抗するものであるべきだという(カミュ的な)、メタ真善美観にも、どうも私は飽き足らない。芸術が、真善美と偽悪醜に「別たれた事自体」に関心を集約させるスタンスである事こそが、私にとっての尤もな関心ごとである・・・のならば

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雑考・日記・メモ「逆説的協同」

雑考・日記・メモ「逆説的協同」

逆説的協同

1人で為そうとする時に、決して1人では為せない事を強く感じてしまう。
どこまでも独りになろうとする事によって、関係の中に在らざるを得ない事を思い知ってしまう。
コミュニケーションはディスコミュニケーションの中にしか芽生えなという、この逆説。
そして協同とは、実はそういうところから始まるはずである。

2024年2月6日 

哲学・日記・メモ「老人とこども」

哲学・日記・メモ「老人とこども」

「老人」と「こども」

「老人」は高齢者ではない。
「老人」は必ずどこかに障害を抱えている、という意味では障害者であるが、障害を必然として受け入れる事によって障害者ではない。
また「老人」は生の中のみに生きるのではなく、死と共に、そこに近しく在るという意味で「こども」である。
そして「老人」は、独りであると同時に、これまで出逢った総ての人々として多である(※)。
つまり「老人」は人であり人間てあり

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哲学・日記・メモ「手塚治虫とブラック・ジャック、ときどきカミュ」

哲学・日記・メモ「手塚治虫とブラック・ジャック、ときどきカミュ」

手塚治虫とブラック・ジャック、ときどきカミュ

しばしば手塚漫画の集大成が『火の鳥』として語られるのは残念なことだ。私は『ブラックジャック』にこそそれを認めたい。

「ふたりの黒い医者(51話)」のラストで彼がキリコに投げつける「それでも私は人を治すんだっ!自分が生きるために!」という台詞は、キリコに向けてと言うよりも、手塚治虫が晩年に埋没してしまった思想・・・全体性への同一化へこそ投げられるもの

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雑考・日記・メモ「カラオケの事」

雑考・日記・メモ「カラオケの事」

カラオケの事

カラオケとは何か?
近史としては「公的な選曲の自由の象徴としてのジュークボックス」があり(何故ジュークボックスが公的なのかと言えば、レコードと異なる「喫茶とと言う公的場」を想定しているから)、前史として、これに歌う能動性が加味された「歌声喫茶」につながり、さらに「選曲と歌う能動性」がMIXされた「カラオケ」に進化する。
ここまでが90年代。
以降はボッチカラオケや歌唱上達としてのカ

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哲学・日記・メモ「アートや哲学は教育に導入できるのか」

哲学・日記・メモ「アートや哲学は教育に導入できるのか」

アートや哲学は教育に導入できるのか

アートとは、目の前の「もの」に憑かれながらに「何ものかを成す」技術だ。絵なんて描きたくない。でも描かずにはいられない。制作なんて楽しくはないのに止める事が出来ない・・・そのように「もの」に憑かれながらも、「我を失わずに何ものかを成す技術」がアートなのだとしたら、アートとは決して楽しいものではないのだろう。

哲学も同じかもしれない。

哲学をせずにはいられない

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哲学・日記・メモ「音楽的なるものと絵画的なるものについて」

哲学・日記・メモ「音楽的なるものと絵画的なるものについて」

「音楽的なるものと絵画的なるものについて」

音楽の本質が、世界の開闢に向かう根源的志向であるのだとしたら、その過程で切り捨てられていく非本質な属性とは、具体的な言葉・歌詞の、まさにその具体性なのではないだろうか(この具体性・属性を「内容」とするならば本質は「形式」となる)。

音楽の本質は「旋律」にあるのだろう。

しかし・・・ある曲を聴くとき、私は歌詞を抜きにしてその曲に魅かれる事はない。

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哲学・日記・メモ「ハレとケ 年賀状の事」

哲学・日記・メモ「ハレとケ 年賀状の事」

「ハレとケ 年賀状の事」

年賀状を書かなくなって久しい。しかし年始の挨拶を全くしないわけではなくて、メールで送信してはいる。これでいいのか?と思う事はあっても、それを20年も続けてきていると、それでいいのかもしれないと、開き直りでは決してない省察の結果として、今では受け入れている私がいる。
と言うのも次のように考えるからである。

メールでも心づかいが伝わっていれば良いのではないだろうか?

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哲学・日記・メモ「スポーツとは何か」

哲学・日記・メモ「スポーツとは何か」

エクストリームスポーツは自分自身の挑戦を軸にしているから1人称あるいは無人称のスポーツだ。格闘技などは「目の前のあなた」を競技の対象としているから2人称の意味合いが強い。野球やサッカー等は、チームワークが必要であるし、ソーシャルな競技としての認識が強いからに3人称だろう。
スポーツと何か?
を問うてみました。


「スポーツとは何か」

スポーツとは何か。

頭脳スポーツと言う分類がある。囲碁や

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