哲学・日記・メモ「手塚治虫とブラック・ジャック、ときどきカミュ」
手塚治虫とブラック・ジャック、ときどきカミュ
しばしば手塚漫画の集大成が『火の鳥』として語られるのは残念なことだ。私は『ブラックジャック』にこそそれを認めたい。
「ふたりの黒い医者(51話)」のラストで彼がキリコに投げつける「それでも私は人を治すんだっ!自分が生きるために!」という台詞は、キリコに向けてと言うよりも、手塚治虫が晩年に埋没してしまった思想・・・全体性への同一化へこそ投げられるものではなかったか。
あるいは「ちぢむ!(46話)」の最後のページでの「医者は何のためにあるんだ!」と言う叫びは、全体性の象徴である「火の鳥」にこそ投げかられるものではなかったか。
間黒男の「医療技術=アート」はカミュの『反抗的人間』の「芸術観=アート」に通じていたはずなのだ(技術とはアートである)。
すなわち「芸術は永遠の生成のなかで消える価値に、形体を与えようとする点で、我々を反抗の源泉に引き戻す」(『反抗的人間』カミュ)。
手塚治虫は宗教者ではない。だから、彼が宗教者でなく表現者であろうとするならば、だから私はここにとどまってほしかった。『火の鳥』は手塚治虫の集大成であっても代表作にはなれなかった。そしてまたこれが傑作であるとも言い難いのは、手塚治虫があくまで表現者であったからなのだ。
宇宙との一体化云々はあってもいい。しかしそれは私的体験にとどめておくべきものではないのか。
2024年1月26日
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