オカムー

詩と絵を描いて、自然農も始めました。色々と試みています。

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    路上観察。街にはいたるところにポロックの絵がある。ロスコの絵がある。白髪一雄の絵がある。モンドリアンだって、ある。

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詩・散文「ゴーヤん」

ゴーヤん 暑くても暑くても 暑くても  ゴーヤんは達は 皆元気  何で? ってきいたら ゴーヤんだから  だって 2024年8月

    • 雑考・日記・メモ「雑草と言う草はない のかもしれない のだけれども」

      雑草と言う草はない のかもしれない のだけれども 雑草と言う草はない、と牧野富太郎は言ったけれども、雑草と言う草はある。それは有用な野菜や観賞植物に対する、その他もろもろの雑草として在る。「野菜・観賞植物 対 雑草」と言うステージでは、雑草というカテゴリーは対立項として不可欠だからだ。 ではそう言う有用性のステージではない、共同のステージで雑草と言う草は無いのだろうか?そう、確かに無いのだと思う。スベリヒユは市場に出回らない非有用な雑草であるが食べると美味しい。ドクダミやス

      • 雑考・日記・メモ「カバディの事」

        カバディの事 カバディって面白い。 カバディは攻めのスポーツではない。 攻撃と言う攻撃をしない。 じゃあ守備のスポーツなのだろうか?守備のスポーツって、聞いたことがないけれども、もしそれがあるのだとしても、カバディはちょっと違うような気がする。 カバディが重きを置いてるのは「攻撃」でも「守備」でもなくて「逃げ」なからから。 それでもカバディは、あくまでスポーツなのである。 当然スポーツだから勝敗はある。 しかしその勝敗が「逃げ」の技術を主幹としているのは、他の

        • 哲学・日記・メモ「『二元論の克服』から『二元論への問い』へ」

          「二元論の克服」から「二元論への問い」へ 「二元論の克服」は多元論に収まるような多元性によっては成らないのだと思う。多元性は二元性の調停の役割を担うだけであるだろうから。それは「調停」でしかない。さらに言えば「二元論の克服」は、その「克服」が何を意味するのかが「本当の意味で」理解された時に、それは「二元論そのものに内在する二元性そのものへの問い」となる。「克服」の次のステージは「一元論」や「同一性への回帰」ではなく「問い」なのだ。だから問いによって二元論は克服されえないし「

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        記事

          哲学・日記・メモ「貨幣の事あるいは物々交換の事」

          貨幣の事あるいは物々交換の事 「貨幣においては、商品の一切の質的差異が消失するのであるが、同じように、貨幣の方でもまた、急進的平等主義者(レヴェラー)として、一切の差異を消滅させる(『資本論』)」 。 貨幣は質的差異に量的な基準を与え、差異を消失させる。そしてこの差異の消失は、等価交換という幻想を可能にする。交換は等価だから為されるのではない。むしろ等価であるならば交換は為されないだろうから。価値があるかどうかわからない、明らかに未知な、何ものかに向かうところにしか交換は

          哲学・日記・メモ「貨幣の事あるいは物々交換の事」

          詩・散文「蛍」

          日落ちて 河鹿鳴く声 澤の音 独り蛍は 星夜に昇りぬ

          詩・散文「蛍」

          哲学・日記・メモ「憑依≠調和≠制作」

          憑依≠調和≠制作 私はアートは好きだけれども、創るという行為は「好き」とは必ずしも言えない。「創る」とは、そんな事したくなくても「創らずにはいられない」からである。 アートが好きと言う人と、何か創らずにはいられない人、とは似ているようで全然違うのだろう。アートが好きな人は往々「自分にない何か」を求めて、それをアートに仮託する。その結果アートやアーティストをミューズとしてしまう。そこには偶像がどうしても生じている。対して、何かを創らずにはいられない人、は「自分でない何かに憑かれ

          哲学・日記・メモ「憑依≠調和≠制作」

          雑考・日記・メモ「グスタフ・クリムトとレオナルド・クレモニーニ」

          グスタフ・クリムトとレオナルド・クレモニーニ 19歳だったか20歳だったかの頃。 今は無き池袋のアート専門書店ARTVIVANTにて、一目ぼれして購入したのが、レオナルド・クレモニーニの画集でした。当時2万5000円くらいしましたが、思い切って買ったのです。 クレモニーニは今ではほとんど忘れられていて、アートシーンでで語られることはないんじゃないかと思うのだけれども、私はもっと語られてもいいと思うのです。 だから私がそのうちクレモニーニ論として語ろうかな、なんて考えて

          雑考・日記・メモ「グスタフ・クリムトとレオナルド・クレモニーニ」

          雑考・日記・メモ「真善美のメタメタとしての中村宏イズム」

          雑考・日記・メモ「真善美のメタメタとしての中村宏イズム」 芸術は、真善美を志向するアート(技術)である、と言う通念にはさほど魅力を感じない。そして、しかし芸術は、偽悪醜をして真善美に抗するものであるべきだという(カミュ的な)、メタ真善美観にも、どうも私は飽き足らない。芸術が、真善美と偽悪醜に「別たれた事自体」に関心を集約させるスタンスである事こそが、私にとっての尤もな関心ごとである・・・のならば、それに必要なのは、メタメタな認識が必要なのだろう・・・私が偽醜悪について学んだ

          雑考・日記・メモ「真善美のメタメタとしての中村宏イズム」

          雑考・日記・メモ「逆説的協同」

          逆説的協同 1人で為そうとする時に、決して1人では為せない事を強く感じてしまう。 どこまでも独りになろうとする事によって、関係の中に在らざるを得ない事を思い知ってしまう。 コミュニケーションはディスコミュニケーションの中にしか芽生えなという、この逆説。 そして協同とは、実はそういうところから始まるはずである。 2024年2月6日 

          雑考・日記・メモ「逆説的協同」

          雑考・日記・メモ「怪人『ダダ』と『ダダ』」

          「怪人ダダ」が好き。 弱っちいのが良い。 弱っちいのに頑張ってる。 上司に反抗できず、腕力では人間にも劣る。 でも頑張って「人間の標本6体を集める」という上司からの命令を遂行しようと、頑張るのである。無理かもしれない・・・そういう困難がわかっていてもやらねばならない、その悲哀を「怪人ダダ」の転倒シーンに見てしまったのは、果たして私だけだろうか。 美術史での「ダダイムズ」も似たようなものだ。一見先鋭的で攻撃的に見えるが、何のことはない、はったりにすぎない。最初のインパクトのみな

          雑考・日記・メモ「怪人『ダダ』と『ダダ』」

          哲学・日記・メモ「老人とこども」

          「老人」と「こども」 「老人」は高齢者ではない。 「老人」は必ずどこかに障害を抱えている、という意味では障害者であるが、障害を必然として受け入れる事によって障害者ではない。 また「老人」は生の中のみに生きるのではなく、死と共に、そこに近しく在るという意味で「こども」である。 そして「老人」は、独りであると同時に、これまで出逢った総ての人々として多である(※)。 つまり「老人」は人であり人間てあり、それ以上に、他の「何か」でもあるのだろう。 「老人」は「高齢者」なのではないの

          哲学・日記・メモ「老人とこども」

          哲学・日記・メモ「手塚治虫とブラック・ジャック、ときどきカミュ」

          手塚治虫とブラック・ジャック、ときどきカミュ しばしば手塚漫画の集大成が『火の鳥』として語られるのは残念なことだ。私は『ブラックジャック』にこそそれを認めたい。 「ふたりの黒い医者(51話)」のラストで彼がキリコに投げつける「それでも私は人を治すんだっ!自分が生きるために!」という台詞は、キリコに向けてと言うよりも、手塚治虫が晩年に埋没してしまった思想・・・全体性への同一化へこそ投げられるものではなかったか。 あるいは「ちぢむ!(46話)」の最後のページでの「医者は何の

          哲学・日記・メモ「手塚治虫とブラック・ジャック、ときどきカミュ」

          哲学・日記・メモ「手塚治虫とブラック・ジャック、ときどきカミュ」

          手塚治虫とブラック・ジャック、ときどきカミュ しばしば手塚漫画の集大成が『火の鳥』として語られるのは残念なことだ。私は『ブラックジャック』にこそそれを認めたい。 「ふたりの黒い医者(51話)」のラストで彼がキリコに投げつける「それでも私は人を治すんだっ!自分が生きるために!」という台詞は、キリコに向けてと言うよりも、手塚治虫が晩年に埋没してしまった思想・・・全体性への同一化へこそ投げられるものではなかったか。 あるいは「ちぢむ!(46話)」の最後のページでの「医者は何の

          哲学・日記・メモ「手塚治虫とブラック・ジャック、ときどきカミュ」

          雑考・日記・メモ「カラオケの事」

          カラオケの事 カラオケとは何か? 近史としては「公的な選曲の自由の象徴としてのジュークボックス」があり(何故ジュークボックスが公的なのかと言えば、レコードと異なる「喫茶とと言う公的場」を想定しているから)、前史として、これに歌う能動性が加味された「歌声喫茶」につながり、さらに「選曲と歌う能動性」がMIXされた「カラオケ」に進化する。 ここまでが90年代。 以降はボッチカラオケや歌唱上達としてのカラオケ活用も含まれて「カラオケ文化」が成熟していく・・・「カラオケ文化論」。カラ

          雑考・日記・メモ「カラオケの事」

          哲学・日記・メモ「アートや哲学は教育に導入できるのか」

          アートや哲学は教育に導入できるのか アートとは、目の前の「もの」に憑かれながらに「何ものかを成す」技術だ。絵なんて描きたくない。でも描かずにはいられない。制作なんて楽しくはないのに止める事が出来ない・・・そのように「もの」に憑かれながらも、「我を失わずに何ものかを成す技術」がアートなのだとしたら、アートとは決して楽しいものではないのだろう。 哲学も同じかもしれない。 哲学をせずにはいられない者は、いる。彼は問いを発し考え続ける。それが自分や誰か、社会にとって役に立つこと

          哲学・日記・メモ「アートや哲学は教育に導入できるのか」