哲学・日記・メモ「『二元論の克服』から『二元論への問い』へ」
「二元論の克服」から「二元論への問い」へ
「二元論の克服」は多元論に収まるような多元性によっては成らないのだと思う。多元性は二元性の調停の役割を担うだけであるだろうから。それは「調停」でしかない。さらに言えば「二元論の克服」は、その「克服」が何を意味するのかが「本当の意味で」理解された時に、それは「二元論そのものに内在する二元性そのものへの問い」となる。「克服」の次のステージは「一元論」や「同一性への回帰」ではなく「問い」なのだ。だから問いによって二元論は克服されえないし「問い」にとっては、「克服」という事がそもそも意味を持たないものなのだろう・・・もしも、「克服」が人の人生における本当の課題ではないのだとしたら。
2024年7月