#メモ
哲学・日記・メモ「『二元論の克服』から『二元論への問い』へ」
「二元論の克服」から「二元論への問い」へ
「二元論の克服」は多元論に収まるような多元性によっては成らないのだと思う。多元性は二元性の調停の役割を担うだけであるだろうから。それは「調停」でしかない。さらに言えば「二元論の克服」は、その「克服」が何を意味するのかが「本当の意味で」理解された時に、それは「二元論そのものに内在する二元性そのものへの問い」となる。「克服」の次のステージは「一元論」や「同一
哲学・日記・メモ「貨幣の事あるいは物々交換の事」
貨幣の事あるいは物々交換の事
「貨幣においては、商品の一切の質的差異が消失するのであるが、同じように、貨幣の方でもまた、急進的平等主義者(レヴェラー)として、一切の差異を消滅させる(『資本論』)」 。
貨幣は質的差異に量的な基準を与え、差異を消失させる。そしてこの差異の消失は、等価交換という幻想を可能にする。交換は等価だから為されるのではない。むしろ等価であるならば交換は為されないだろうから。
雑考・日記・メモ「逆説的協同」
逆説的協同
1人で為そうとする時に、決して1人では為せない事を強く感じてしまう。
どこまでも独りになろうとする事によって、関係の中に在らざるを得ない事を思い知ってしまう。
コミュニケーションはディスコミュニケーションの中にしか芽生えなという、この逆説。
そして協同とは、実はそういうところから始まるはずである。
2024年2月6日
哲学・日記・メモ「老人とこども」
「老人」と「こども」
「老人」は高齢者ではない。
「老人」は必ずどこかに障害を抱えている、という意味では障害者であるが、障害を必然として受け入れる事によって障害者ではない。
また「老人」は生の中のみに生きるのではなく、死と共に、そこに近しく在るという意味で「こども」である。
そして「老人」は、独りであると同時に、これまで出逢った総ての人々として多である(※)。
つまり「老人」は人であり人間てあり
哲学・日記・メモ「音楽的なるものと絵画的なるものについて」
「音楽的なるものと絵画的なるものについて」
音楽の本質が、世界の開闢に向かう根源的志向であるのだとしたら、その過程で切り捨てられていく非本質な属性とは、具体的な言葉・歌詞の、まさにその具体性なのではないだろうか(この具体性・属性を「内容」とするならば本質は「形式」となる)。
音楽の本質は「旋律」にあるのだろう。
しかし・・・ある曲を聴くとき、私は歌詞を抜きにしてその曲に魅かれる事はない。
「
哲学・日記・メモ「かえらなかった時計屋さん」
「かえらなかった時計屋さん」
https://www.youtube.com/watch?v=lPTsudui3kI
「みんなの歌」1978年の楽曲です。私が子供の頃に聴いた「みんなの歌」で強く記憶に強く残っている曲です。
今にして振り返ってみれば、この歌詞は東西冷戦を暗示していたのだとも思えます。終盤の「大きなロボット」と「おじいさん」の決闘は、おじいさんがロボットを抱えて飛んで行って「二