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あの世に行ったかもしれない友へ捧ぐ《4/4》

〚5051文字〛 

※読み終えるまでに14分程度掛かります。ごめん、長くなりそうです。

☟_前回はこちら。


■Fの覚悟

9月になって電話を掛けると、Fは家を引っ越していた。
8月に会った次の週には物件を決めて、その時にはもう新居の賃貸に住んでいたという。
高齢の母親のために駅に近い場所へ以前から引っ越しを計画していたと説明していたが、僕には気になることがあった。
引っ越しは結構大変なイベントだ。もし引っ越しを考えているなら、先月会った時に少し話してくれても良かっただろう。それも引っ越しに際し、部屋の「私物をほとんど処分したから」と、わざわざ付け加えていたことだ。
電話を切った後もずっと気になっていた。どうして〝私物をほとんど処分〟する必要があったのだろうと、しばらく不吉な予感というか余韻が残って消えなかった。

■F骨髄移植

その不吉な予感は10月のFからの突然の電話によって現実のものとなる。
実はFは、数ヶ月前から持病の再生不良性貧血の著しい悪化により、もう輸血によって対処不可能な状態となり、この度ドナーが見つかったことから、骨髄移植のために入院する運びとなったのだという。
僕は一旦言葉を失うも、骨髄移植すれば、病気が改善されると思っていたから、それなら良かったじゃないかと言ってしまった。
Fは「そうだな」と答えた後、これまでの病気の経緯と予後について詳しく話してくれた。
最初は薬で様子を見ていたが次第に芳しくなくなり、輸血をするようになったが、今度は輸血によって臓器がやられ、もう残る手は骨髄移植しかないなくなったという。骨髄移植は成功すれば5年生存率は7割以上だが、実際の所、やってみないと分からない。生着不全=移植失敗=ならこの先はないとのことだった。つまり死を意味するのだ。
再び言葉を失った。
僕は我に返り、それでも取り乱しながら、少ないボキャブラリーを総動員して出来る限りの慰めの言葉でFを励ました。
何と言ったか全部覚えていないが、また場違いない店に行って一緒に失笑を買おう、とか、サイゼリヤでアホな話して周囲から冷めた目で見られようぜ、とか、そんなことを言ったと思う。旅行だってまた行きたいし、まだ行けてないアニメの聖地巡礼だってあるじゃないか。くどいぐらい振り絞り、治して戻って来たらまた一緒に会って遊ぼうと言って8回くらい約束した。
Fは「ああ、ああ」と頷き、電話口で涙ぐんでいるようだった。

電話の後、僕は風呂に入っていて、ふとFが以前ぽつりと言っていたことを思い出した。
まだFが元気だった頃、俺たち10年後どうなってるんだろうなーという、よくある話題になった時、僕が冗談で答えたのとは反対に、Fは「俺は誰とも連絡を取らずに一人でいると思う」と真剣な口調で言った。
僕が「何で?」と訊くと、「借金まみれになってお見せ出来ない姿になってるから」と言って多少笑いを取っていたけれど、実はあの時から、私物を処分して帰る場所をを断ったのと同じように、未来を見据えた覚悟をしていたのかもしれない。

■最後の電話

それから僕はずっとFのことを考えていた。
再生不良性貧血や骨髄移植についてネットで何度も調べたりもした。地元の友達の看護師にも話を聞いた。
治療に専念してもらいたいとFの見舞いには行かないと決め、本格的な治療に入ったら身体に障るだろうと、こちらからは連絡しなかった。
そうして10月中旬、Fから電話が掛かって来た。これがFと話した最後の電話となる。
移植のための前処置が全て終わり、明日から移植が始まると話していた。声が明るかったことに安心したものの、僕は逆にその明るさに違和感を覚えた。
入院生活は暇だとか、iPadを買ってyoutubeが見放題だとか、最初はそんな雑談をしながら、僕はタイミングを見計らって、幾つも用意していたFを勇気付けるための言葉を掛けようとしていた。だがそれを伝えることはなかった。
Fは雑談を早々に切り上げると、「俺は明日以降どうなるか分からない。色んな治療もしたし、出来ることは全部やって来た。だから、もし連絡が取れなくなったら・・そういうことだからさ」。
極めて冷静だったFの言葉に僕は固まった。
僕はやや低いトーンで「そんなこというんじゃねぇよ」と返すのが精いっぱいだった。
それから気不味さが2人を包み、1分ぐらい無言になった。
その後でFは、生着には大体2ヶ月位掛かるから、しばらく身体がしんどいから電話はできないだろうけど、youtubeで観たアニメの感想とかメールでバンバン送るからと言ってくれた。
僕は分かったと答えて、年明けに電話でするよと約束をした辺りから、急に色々なものが込み上げて来て居た堪れなくなった。そして長電話は身体に悪いだろうからと、電話を切り上げてしまった。
切った後で後悔した。もっと話をすれば良かった。Fの話を聞いてあげれば良かったと思った。
電話を切る際のFの寂しそうな声がずっと残っている。

■夢枕

2014年の12月7日の夜、夢の中にFが現れた。以下は夢の話。


僕が目覚めると、自室の椅子にFが背を向けて座っていた。異様に思った僕が「どうした?。何でいる?」と声を掛けると、Fは「腹の調子が悪いからトイレ貸して」と言い、トイレへ案内した。
入院中なのに自分の所へ来ているのを変に思い、玄関の方を見ると、誰かが訪ねて来た。対応すると、それは警察官と病院関係者で、丁度トイレから出て来たFは全てを悟り観念した様子で、彼らに連れて行かれてしまった。
そして僕とすれ違う時、何か言いたそうな目をしていたのが非常に印象的だった。

目覚まし時計で夢から目を覚ました後も、この夢の不吉な余韻が消えない。まさか、良くある予知夢で、別れのあいさつにやって来たのでは・・・。それまで来ていたFからのメールも11月下旬頃から来ていなかった。
その日は職場に遅刻寸前であったことから、仕事が終わってから年明けを待たず、Fに連絡した。帰宅後もずっと余韻を引き摺ったままだった。
すると電話口で「お客様の都合でお繋ぎ出来ません」とのメッセージが返って来た。
Fは良く料金を滞納していたことから、たまにこういうことがあった。Fの実家の番号も知っていたのでそちらに掛けたが、Fは引っ越しており、その電話番号は使われていなかった。Fの家族も知らないし、会ったこともなかった。

■音信不通

Fの夢を見て以来、何度か電話をしたが、「お客様の都合でお繋ぎ出来ません」の音声は変わらない。
もしかしたら身体の調子が悪くて応じることが出来ないのかもしれない。それなら迷惑だと思い、翌15年の2月中旬頃に改めて電話を掛けた。
すると、提携メッセージは「この電話番号は使われておりません」に変わっていた。
こうなるともはや連絡のしようも、Fの安否も分からない。

■大学や職場に問い合わせ

その後、大学時代の知り合いに連絡を取って事情を話した。するとそもそも他の友人は誰もFが入院したことを知らず、病気のことも話されていなかった。彼から病気の全てを打ち明けられたのは僕だけだったのだ。
誰かの提案で大学の同期会事務局にも確認したが、個人情報なので教えられないとのことだった。
Fの働く職場にも連絡した。しかしFが働く会社は、似たような会社が近隣に多くあることから難航した。在籍していた、いないに関わらず、やはりどこも個人情報で答えることは出来ないということだった。それはそうだ。
Fが以前住んでいたという集合住宅にも行ってみたが、そもそも引っ越していたのだ。
電話や外で会うのは頻繁にあったが、お互いの家を行き来するということこれまでなかった。どうして引っ越したと聞いた時、住所を聞かなかったのだろう。それも後悔の1つだ。

■現在

こうして、2014年10月に連絡を取れなくなったのを最後に、以後7年間、Fとは音信不通だ。
生きているかも、死んでいるかも分からない。
だが、Fが最後に話した電話の中で、「連絡が取れなくなったらそういうことだから」との言葉からも、様々な状況を総合的に判断すると、Fはもうこの世にいないのかもしれない。
生きている場合もあるだろう。身体の調子が悪く、その姿を見せたくないが故に連絡を絶っているのかもしれない。10年後の話題で彼が話した言葉にも符合する。放って置いて欲しいのなら、その通りに従う。
そしてもう1つ。実は回復して普通に暮らしているが、Fが入谷とは縁を切りたいから連絡を絶ったということもあるだろう。寧ろそれなら全然構わない。僕としては若干の寂しさもあるが、どこかで元気に生きていならそれでいい。
いずれにせよ、今後も生死不明のまま時間だけが経過するのだろう。

■Fから学んだこと

人との出会いには意味がある、と思いたい。それが友達だったらなおさらだ。
僕はFから多くのことを学んだ。実に多くのことを。
弱音や愚痴は多いが、Fは本当に努力家で忍耐力があった。そして己の人生と向き合い戦う勇気があった。
一方で、互いの良くない部分は写し鏡のようだった。初対面の時には似ても似つかないと思う相手だったが、付き合うほどに互いの悪い所を認識して、たまに嫌気が差したけれど、そこに改善する余地があることを常に示してくれていた。
そしてFは人生が有限であることを彼は自らの人生をして教えてくれた。
Fほど重いものではないが、僕も様々な病気を経験している。だけど気付いていなかった。人生には限りあって、普通に、健康で何気なく生きていられる時間は意外に短いということ。
Fから入院の連絡を貰った直後からか、僕の中である精神的な革命が起きた。
描いては描かなくなるを繰り返してきた絵だ。しばらくなおざりになっていたが、その頃から絵を再び描き始めるようになった。
休みは勿論、仕事の休憩時間、仕事から帰って来てから寝るまで。通勤や帰りの電車ではモチーフ見てひたすらアウトプットが出来ないかと真剣に取り組んだ。
それが原因か、翌年2015年夏に3度目の、それまでで最大の緑内障発作を起こし、4度目の2017年初旬、5度目の今年4月には大学病院で外科治療と、それぞれ失明の危機に貧したけれど、有限を知った者として立ち止ることが出来ない。
今もし《生きるとは何だ?》と聞かれたら、「出し惜しみなく行動し続けること」と答えるだろう。

■F君へ

Fよ。君はよく「消費者になるだけの人生は嫌だ」と言っていたね。その呪縛によって随分自分を苦しめてもいたね。若かったし、僕らの通う大学には確かに恵まれた人間も多かった。仕方ない。僕もそう思うことはあった。だけど正直その愚痴にはあきあきだった。
だから、この場を借りて言わしてもらおう。
そもそも人間はただ生きてそこに存在するだけで他人に何かを与えているものなんだ。
実際君は、自分では気付かぬ多くのものを僕に与えてくれた。それはおそらく僕にだけでなく、君の人生の中で無意識に生産された何かを周囲の人間に絶えず与え続けていたんだ。君は人に影響を与える人間だったんだ。
君の他の友人知人が君の病気や死んだかも知れないことを知った時、大なり小なり自分の人生や今後の生き方について考えたはずだ。
そしてそこから何らかの変革が起きたかもしれない。ある人は命の大切さを考えたかもしれないし、ある人は悪習を改善かもしれないし、ある人は家族や友人恋人を大切にしようと思ったかもしれない。君を起点として何かが始まったかもしれないのだ。
君は「そんな利用のされ方は不本意だ!」と言って怒るだろう。
だけど君は確かに人に与えているのだ。消費するだけの人生でないことは僕によって既に証明されているのだ。
それは本来君が望む形で掴んだ成功よって人に与えるものよりも、もっと偉大で素晴らしいことだろう。僕はそう思うんだ。
それから君とはもっと色んな所へ出掛けたり、遊んだりしたかった。
それだけが言いたかった。

■おわりに

この記事を書き始め4日が経った。
書くことは決まっていたからダーッと書き始めたら一日で書き終わると思っていた。だが、Fとの思い出が胸に巡るたび、書く手が止まった。
色々な人生の苦労を背負って生きた30年の人生は傍目から見ても大変なものだった。今はもう金の心配や、一切の健康不安や病気から解放されて自由で心穏やかにいることと願いつつ、お別れさえ言えなかったFへ、ここに哀悼の意を捧げる。


長文乱文、暗~い、重~い内容でしたが、ここまでお付き合い下りありがとうございました。
生存の可能性が残っている限り断定するのは非常に良くないと思い、タイトルは変更いたしました。
書き殴った文章ではありますが、いつか書きたい内容でした。皆様も縁あってお近付きになったご友人を是非大切になさってください。

ではでは。


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