【13】 母娘の問題、ここでも。私の術後二日目、母の診察に付き添いながら脳みそもパンク
手術から二日後、ちょうど母の通院日だったため、私は入院病棟をふらふら抜け出して、パジャマにドレーン姿で、母の診察に付き添いました。
乳房を切りとった痛みよりも、術後一晩の徹夜の消耗が全身に染みわたっており、院内を歩くとハアハアとすぐに息が切れてしまいます。それでも「なるべく動いてください」と言われていたため、壁づたいに一歩一歩歩きます。
今、振り返れば、「術後くらい母の付き添いを休めよ!!」と自分に言ってあげたいのですが、当時は「絶対に自分が付き添わなくてはならない」と思い込んでいたのです。
「母ひとりに診察室に行かせたら、治療に対して医師に聞くべきこと、相談すべきことが片手落ちになる=それは母にとっての不利益=それは私にとっての不利益」
当時、一切の自覚はありませんが、私の脳みそは、誰に強制された訳でもなく、そのような結論を私に下し、私もその通りに行動したのでした。
「なんだか小さくなったみたい」
病院に到着した母が、胸を張れずに猫背で歩いている私を一目見て言いました。
確かに、今日は母の診察日だと言うのに、抗がん剤の合間の、比較的体調の良い母と比べると、どちらが病人か分からない状態です(まぁどちらも病人なのですが)。
待合室で、パジャマのボタンをはずして、母に手術痕を見せます。
「……きれいに縫ってあるわね」
母が興味深そうに、私の傷あとを凝視してきました。
傷あとは、迷いなくスッパリと切られた15㎝ほどの「ななめ一本線」。
空気に触れさせたほうが治りが早いからなのか、術後二日目にはガーゼなどが取られ、剥き出しの状態です。
傷跡はまだ赤黒く、周囲はひどい内出血のため、黄色や緑色のまだら模様に覆われていました。
「……そんなにショックじゃないんでしょ?」
母が、胸を失ったことへの、私の感情を確認してきました。
「……うん」
確かに、幸か不幸か、私は子供のころから、祖母や母の胸の傷あとを見て育ったためか、胸を失うことへの抵抗があまりありませんでした。
私の場合は、「乳房を失うこと」よりも、「ガンになったことそのもの」に、打ちのめされていたのでした。
けれど。
けれども。
なんだかなあ……。
母との会話の中で、私はずっともやもやし、うっすらと傷つき続けているのでした。
母にとっては「単なる言葉、なにげない会話」。
でも同時に、私なら「同じようには相手に言わないだろう言葉」。
同じことを言うのでも、こんな風に言い換えて欲しかった。
当たり前のことですが、シンプルに「大丈夫?」って言ってほしかったのですね。
乳房を摘出することのダメージだって、人それぞれ。私は「割と大丈夫」だったけれども、人によっては「一大事」なのですよね。
実際に、術後、何か月経っても、自分の傷跡を見られない患者さんもいるそうです。バスルームの鏡を絶対に見ないようにして、お風呂に入る方もいるとか。
乳房は「女性性の象徴」と考える人もいるでしょうから、心の傷つき方、損なわれ方、そしてその悲しみを回復してゆくペースも人それぞれなはずです。
「自分は、乳房をとっても、なんてことなかった」という母が、他者にもそれを当てはめるのは、あまりに強引で想像力がなさすぎるというもの。
母娘関係の「あるある」だと思いますが、
「親子なんだから、その程度のことを言ってもいいでしょ」というような、どこか一心同体めいた空気感が漂っている。
そしてそのことに、母の側は無自覚。私には自覚があるが、しかしはっきりと言語化できておらず、当然、対処法が分からないまま接している。
若い頃、実家に帰るたびに、「母の言葉」に敏感に反応し、泣いて抗議したことが何度もありました。
しかし、抗議をしても「(その程度のことで傷つくなんて)デリケートなのね」と、傷ついた側のせいにされてしまい、分かってもらえない。
今でこそ、”私は「母の言葉」に、傷つけられて生きてきた”という事実に気づき、受け止め、自分を認めてやることができていますが、
会話の根本の、大事な部分が、通じ合っていない。
噛み合わないことを、相手は感じていないが、こちらはずっと感じている。
この虚しさを、自分の中ではっきりと言語化して自覚できるまでに、40年以上もかかったわけです。これが、私の脳みそのスピードなのです。
さて、母の診察の順番が回ってきて、ふたりで診察室に入ってゆくと、私と同世代くらいの放射線科の女性医師が、私の方をみて「いかがですか」と尋ねてきました。
「お陰様で、無事に手術を終えました」
手術のあとを見せて、軽く状況を話します。
この放射線科の女性医師にとって、本来は母が患者であり、私はその家族です。
しかし私は、自分が乳がんかもしれないと判った時点で、「5分でいいから、お話できないでしょうか」という趣旨のメモを、受付の事務員さん経由で渡してもらい、母の診察とは別に、こっそりと時間を作ってもらった医師なのです。
母にはまだ乳がんのことを内緒にしていたこの時期、人生最大のピンチを迎えた私は、患者でもないのに、図々しさも承知の上で、この女性医師を頼りました。
この先、この病院内で、どの医師に診察を受けるのがベターか、手術はどうか、どんな治療が考えられるか。
言える範囲のことを教えてくれた上、この女性医師は、私の胸を触診してくれました。感謝しても、しきれません。
そんな経緯をたどっての、今回の診察。
医師は、放射線後の母の体調などを確認しながら、私も交えてしばらく話をしました。
母が、「本当に、こんなことが起こるなんて」と、親子で同時期にガンになった不運をしみじみと語り、私も医師もうなずきます。
そうして母が、私と女性医師の前で言うのです。
「娘がいますから、本当に助かっています」と。
「本当に、すばらしい娘です」と。
私は、術後で座っているのが辛く、ハアハア息を切らしながら「(恥ずかしいから)やめて」と母を制します。なぜこの人はわざわざ人前でそんなことを言うのだ。しかし、このときは何かを考えられるような肉体ではありません。
聞けば、医師や看護師だけではなく、周囲の友人にまで、「娘がすばらしい」「娘がいて、本当に頼りになる」「産んでよかった」ということを、他人に吹聴して回っている母。
そのことに関して、「母が思ってもいないことを言っている」などと言うつもりもありませんし、実際に「ありがとう」と思われているなら、私だって「よかった」と思います。
しかし、あまりにも繰り返し連呼するような言葉の裏には「発言する理由」がいつだって潜んでいるものです。
のちのち時間が経ってから、母の私への称賛は、「ある種の支配欲」と「母のメリット」が含まれているのかもしれないなあ……そんな風に感じるようになりました。
つまり、
「絶対に、この娘に、私の面倒は見てもらうんだからね、頼んだからね、大丈夫ね? 本当に本当に、頼んだからね?」という無言のメッセージ(笑)
そのように、私の脳みそは判断したのですが、真実は分かりません(笑)
母に問えば、おそらく「支配なんて、とんでもない!! 本当にそう思ったから、口にしたまで」と心外に思うでしょう。
小さな頃から、どちらかというとディスられて育ってきた私は、母の「感謝と称賛の連呼」には、正直、戸惑うものがあったのでした。
思えばこの時期、母の闘病と私の闘病が、同時期に、同じ病院でなされたことで、母と娘の距離感が、一気に溶け合うようにその境界線を失っていきました。離れて暮らす生活から、べったりと密度を増して、どろどろに癒着していったのだと思います。
母があるとき言いました。
「病気になってよかった。娘とこんなに一緒にいられるなんて」と。
母は、病気になったことで「娘との時間」を得られて喜んでいる。
その言葉を聞いて、切なくなりました。
母は私のことを好きなのだな、愛しているのだな。
それは分かっている。寸分も、疑っていない。
けれど、愛しているのに、私を傷つけてしまうのだな……。
そのどうしようもない悲しさをちゃんと理解するのも、もっと後のことです。
今はただ、腹にドレーンをつけたまま、一歩一歩歩くだけで精一杯の私。
ガンにショックを受け絶望しながらも、母のことを助けなければと必死になり、同時に母へのもやもやを抱えている、満身創痍の私。
綱渡りでも、とにかくこうして母娘の治療は、一歩一歩進んでいるのでした。
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