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エンゲルス 『空想より科学へ』、 浜林正夫 『エンゲルス 『空想から科学へ』』 : 〈歴史〉なくして、 思想なし。


書評:エンゲルス『空想より科学へ』(岩波文庫)
   浜林正夫『エンゲルス『空想から科学へ』』(学習の友社) 

私の場合、エンゲルスの『空想から科学へ』を読もうと思い、まずは手軽な文庫本だと考えてネット検索してみたところ、岩波文庫がヒットしなかった。なぜだか、岩波文庫版のタイトルは『空想より科学へ』だったからだ。あまりにも一般化された邦訳タイトルの改訳は、少し考えてほしい。

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そんなわけで、私が「ブックオフオンライン」で手に入れたのが、浜林正夫『エンゲルス『空想から科学へ』』(学習の友社、1995年刊)であった。うっかりエンゲルスの『空想から科学へ』(本編?)だとばかり思って購入したのだが、手にしてみると「解説書」であることに気づいた。そこであらためて探してみたところ、今度は岩波文庫の『空想より科学へ』を入手できたという次第である。

私は、読書の鉄則として、まず「原典」を読む。その後、解説書や研究書を読む。そうしないと、自分が自力でどこまで原典を理解できたのか、それがよくわからなくなるからだ。だから、「キリスト教」の研究を始めた時も、まず最初にやったのは「聖書」の通読であって、「キリスト教の入門書」を読むことではなかった。それは「聖書」を読んでからやるべきことだからである。
で、今回も、翻訳とは言え、エンゲルスの『空想より科学へ』を、まず読んだ。

ちなみに、私はまだ、マルクスの『資本論』を読んでいない。なにしろ、文庫本で十数巻もある浩瀚な理論書なので、なかなか手が出せない。だから、インチキをして「解説書」を何冊か読んだこともあるけれど、まったく満足できなかった。
そのほかから得た、私のマルクスに関するの知識と言えば、日本の近代史の関連で語られるマルクス理解だとか、柄谷行人の著作を通してのものだった。
つまり、どっちにしろ、私はまったくの無知だ。だから、エンゲルスについては、余計に何も知らなかったのだが、先日初めて、マルクス・エンゲルスの『共産党宣言』(岩波文庫)を読んで、ごく一部ではあれ「そういうことだったのか」と腑に落ちるところがあった。それで、マルクスにこだわらずに、エンゲルスを読んでもいいかなと考え直して、今回『空想から科学へ』を読むことにしたのである。

以上が、今回の『空想から科学へ』(に、タイトルを統一しておく)を読むにあたっての、私の現状である。
これを「前説」として書いたのは、レビュアーが「面白かった」の「面白くなかった」のと言ったり、「わかった」の「わからなかった」のと感想を書いたところで、そのレビュアーがどのくらいの知識を持った上で、そう書いているのかが分からなければ、そんなレビューなど、まったく信用ならず、何の役に立たないと考えるからだ。
つまり、当レビューの書き手である私の、エンゲルスやその思想に関する知識は、この程度だと、先にお知らせしておきたかったのである。そうしておいて、あとは好きに書かせてもらおうという算段であった。

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まず、エンゲルスの『空想から科学へ』だが、この本は100ページほどの、実にシンプルな「史的唯物論」のパンフレットである。
で、シンプルだから「わかりやすい」とレビューしている人も少なくないが、これはあまり信用できない。シンプルだからこそ、省かれている部分も多いし、説明が尽くされていない部分もあるからで、「わかりにくい」というのは、「シンプル」な本には、よくあることなのだ。

で、本書もそうである。
なるほど、一読「大筋」は見えた気がする。しかし、理解したか、人に「史的唯物論」を説明できるようになったか、と問われれば、そんな理解にはまったく達していない。いちおう最後まで読めたという程度のことでしかない。
これでは全然ダメだということで、間違って購入した、浜林正夫の『エンゲルス『空想から科学へ』』を読んでみると、これが懇切丁寧な解説書であり、とても理解が進んで、本当に良かった。「勉強させていただきました」と頭を下げたくなるような満足感のある一冊だったのである。

そもそも、エンゲルスの『空想から科学へ』を正しく理解するためには、かなり詳しく「西欧史」を知っていなければならず、さらには「近代西欧哲学史」にも通じていなければならない。そうしたものへのひととおりの理解を「前提」として書かれた『空想から科学へ』を、そうした前後の知識を持たない人が読んで、理解できるわけがないのである。
その点、浜林の解説書は、歴史や哲学について、エンゲルスの同書を理解する上で「最低限必要な知識」の補足説明を懇切丁寧にしてくれており、読者は「なるほど、そういう流れ(つながり)になるのか」と納得できるようになるのである。

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そもそも、サン=シモンフーリエオーエン、あるいはベーコンヘーゲルカントといった人たちの思想まで、大筋にあろうが知っている人というのは、一体どれだけいるのか。そんなことを当たり前に知っている哲学趣味の人は、きっとごくごく一部に違いないし、そのあたりまで本当に押さえている人なら、既にプロの哲学史家だろう。

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(エンゲルスによって「空想的社会主義者」とされた、
 左から、フーリエ、オーウェン、サン=シモン)

したがって、結論としては、多くの『空想から科学へ』読者にとって、このエンゲルスの本は、決して平易ではない。
たしかに「あらすじ」めいたことなら頭に入るだろうが、その中身を理解するには至らない。やはり、この「原典」を読んだ上で、さらに丁寧に勉強を進めていく必要があるのだ。
「あらすじ」や「似顔絵」で、「本体」を知った気になるのは、大間違い。人間の「写真」をいくら見ても、人間という「生物の構造」を理解することなど到底できないのと、同じことなのだ。

そうした意味で、浜林の解説書はオススメである。
他の解説書を読んでいないから、相対的な評価はできないけれど、初心者の私に「なるほど」という納得と満足感を与えてくれたのだから、悪い本であろうはずはない。私のような初心者向きの「入門書的解説書」として、ぜひ多くの人にオススメしたいと思う。

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さて、肝心の『空想から科学へ』だが、浜林に助けられて、私の理解したところでは、とても納得できる「論理的な思想」を語った本である。しかも結構、謙虚だ。

なにが論理的かと言うと、まずリアルに徹しようという姿勢である。つまり「理想に酔わない」「良い思想は、自ずと成る」なんて、うかうかとは考えない。理想と現実とは、別物だという厳しい現実認識を手放さないで、しかし、現実は「変化」するものだという事実に着目して、どう方向づけをすればいいのかと考えるのだ。決して、観念的に希望を夢見るのでもなければ、観念的に絶望し諦めるのでもない。この世界の流れを、科学的に冷徹な目で観察し、その法則に従いながら、しかし、あるべき場所へと歩み行こうとするのだ。

これは極めて「理に適っている」。しかし、かなり困難な思想だ。
というのも、人間は、この「世界」を一気には把握認識できないので、どうしても「見落とし」が出てしまう。さらに言うなら、世界は変化するから、それまでは「想定できなかったもの(や状況)」が生み出されてくるし、それを科学的な世界観に正しく次々と組み込んでいくというのは、容易なことではない。と言うか、ほとんど不可能なのではないか。

エンゲルスが、サン=シモンやフーリエ、オーエンなどの「空想的(観念的)社会主義者」を指して「彼らの思想は、時代に制約されたものである。だからこそ、(※ デューリングのように)今の視点から後知恵で、彼らの欠点を粗探して満足するのではなく、彼らの天才にこそ注目すべきだし、その天才を補って、正しく進化発展させていくことこそが、われわれの使命なのだ」と言うのは、まったく正しいのだけれど、過去の天才たちの思想が「時代の制約を受けて、未完成なもの」なのだとしたら、どうしてマルクスやエンゲルスの思想も「時代の制約」を受けていないと言えるだろう。いや、必ずやそれを受けているはずなのだ。

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だから、私たちが『空想から科学へ』から学ぶべきことは、ここで書かれていることを、そのまま鵜呑みにすることではないだろう。つまり「外形を真似する」のではなく、その「空想から科学へ」という、原理としてのリアリズムを学ぶことが大切なのではないだろうか。
今となっては、マルクスやエンゲルスの考えたようにはならなかったとか、考えたようにはなりそうにないということは確かにあっても、それでも彼らの「基本姿勢」は、間違ってはいなかったように思う。

私たちにいま必要なことは、「後知恵」で彼らの粗探しをすることではなく、彼らの天才(例えば、下部構造あっての上部構造だ、という認識など)に学ぶことだろう。そして、私たちは、私たちのこの時代において、彼らのように最善の「科学的洞察」に努めるべきなのではないか。

現代日本は、『空想から科学へ』でも描かれた時代にも似て、「中間層の解体没落」が加速しており、再び「ブルジョアとプロレタリアート」とでも呼ぶべき「二極化」が鮮明になってきている。
今回のこの「二極化」が、かつてマルクスやエンゲルスの語ったものと、まったく同じものになるとは思えないが、しかし、かつての「二極化」に直面して彼らが考えてことを、ここで再検討することは、決して無駄なことではないはずだ。

果たして、プロレタリアによる共産社会は、歴史過程の必然として訪れるのか。
ひとつ言えることは、じっと待っているだけでは、それは訪れないということだ。「歴史的必然」の中には、間違いなく、私たち個々の「意識」が含まれており、むしろそれらによって「必然」は構成されるのだという事実を、決して忘れてはならないだろう。
だから「必然だ」ではなく、「必然を実現する」でなければならないのではないだろうか。

それに、人類に残された時間は、もうそんなに長くはないと、私は考えている。

初出:2021年3月3日「Amazonレビュー」
   (同年10月15日、管理者により削除)
再録:2021年3月12日「アレクセイの花園」

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