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書評:北田暁大『嗤う日本の「ナショナリズム」』

旧稿再録・初出「アレクセイの花園」2005年3月5日】

※ 再録時註:本稿初出時には、まだ「ネット右翼(ネトウヨ)」という言葉は、一般化していませんでした。ちなみに「在日特権を許さない市民の会(在特会)」の設立は2006年)

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「最近読んだお薦め本」をご紹介しよう。
東京大学大学院の助教授で、理論社会学とメディア史を専攻する、当年33歳、気鋭の研究者、北田暁大の新著『嗤う日本の「ナショナリズム」』(NHKブックス)。

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そのカバー袖に刷られた内容紹介文と、帯の背面に引かれた著者による「序文」の一部を、それぞれ以下に引用する。

『 アイロニーの30年史
若者たちはなぜ右傾化するのか。/皮肉屋の彼らはなぜ純愛にハマるのか。/70年代初頭にまで遡り、アイロニカルな感性の変容の過程を追いながら、奇妙な「ナショナリズム」の正体をさぐる。
あさま山荘事件から、窪塚洋介、2ちゃんねるまで。多様な現象・言説の分析を通し、「皮肉な共同体」とベタな愛国心が結託する機制を鋭く読み説く。気鋭の論客、渾身の書き下ろし!』

『本書で考えてみたいのは、……現代(の若者)文化における二つのアンチノミー、つまり、「アイロニー(嗤い)と感動指向の共存」(『電車男』)、「世界指向と実存主義の共存」(窪塚的なもの)というアンチノミーがいかにして生成したのか、その両者はどのような関係を持ち、いかなる政治的状況を作り出しているのか、という問題系である(あるいは、「2ちゃんねる化する社会」「クボヅカ化する日常」の来歴と機能をめぐる問題系といってもいい)。……/私は、こうしたアンチノミーの構造が九〇年代以降現れた背景に、アイロニー的感性の構造転換があったのではないか、とみている。』

見てのとおり、ここには私が「否定的に興味を持ってきた問題」が、「一連の問題系」として論じられている。すなわち、「若者の右傾化」「純愛小説ブーム」「セカイ系」「2ちゃんねる的アイロニー(=嗤い)」。これらの問題を、北田は「反省」という心的機制の変容を辿ることにより、かなりすっきりと解きあかして見せている。

しかし、北田自身、謙虚に認めているように、解きあかしたからといって、それで問題(病理的に脅迫的な、若者の社会精神状況)が解決するわけではないし、北田にも「処方箋」の提示はできない。
しかしまた、現状を嘆き、やみくもに否定するだけでは、解決へのわずかな糸口を見つけることさえ不可能なのだから、まずは現実を正確に理解しなくてはならない。
一一そうした現実理解の努力に資するものとして本書は書かれ、北田自身はそうした努力とはまた別に、同時に、自分なりの現実へのアプローチを模索的に試みている、ということのようだ。

本書に掲載された著者近影(写真)を見ると、十ちかく年上の私などには、東大大学院の助教授である著者が「どこにでもいる若者」のように見えてしまう。しかし、それは著者自身、喜んで認めることなのだろうし、そんな若者が、自分たちの世代の問題を、このように真摯に考えているというのは、やはり、ひとつの希望の灯だとも言えるだろう。

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私にとって、本書は裨益されるところ実に多く、これまでモヤモヤしていたものに、かなりハッキリとした形を与えられたよう思う。しかし、そこでハッキリさせられた現実とは、必ずしも御しやすい現実ではなかったというのも事実なのだ。

私は、社会人になった18歳の年以来(この二十数年間=おおむね、四半世紀!)、ほとんどテレビを見ないようになったため、テレビ文化にかかわりの深い、(消しゴム版画家)ナンシー関というエッセイスト(評論家)に興味を持ったことはなかったが、北田が共感をもって描き出したナンシー関の(テレビ文化との)「死闘・討ち死」の姿は、私の心をも揺るがすものであった。

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本書が描き出した「アイロニカルな世界」は、相当に手強い敵だと言えるだろう。だが、本書を読んで、私が感じたのは「まだ希望はある」ということであった。――多くの方に本書を、ぜひお薦めしたいと思う。

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