鈴木忠平 『いまだ成らず 羽生善治の譜』 : 神域の棋譜
書評:鈴木忠平『いまだ成らず 羽生善治の譜』』(文藝春秋)
著者・鈴木忠平は、大ベストセラーになった『嫌われた監督 落合博満は中日をどう変えたのか』(2021年刊)で、大宅壮一ノンフィクション賞、講談社本田靖春ノンフィクション賞、新潮ドキュメント賞という「ノンフィクション文学賞」の三大タイトルを独占している。
本書『いまだ成らず 羽生善治の譜』は、そんな鈴木の、待望された3年ぶりの新刊だが、今のところ、前著ほどの話題にはなっていないようだ。
何故なのかと考えてみると、やはり前著が注目されたのは、なんといっても「落合博満」という、選手としても監督としても、実力もあれば実績もあったにも関わらず、世間に媚びないその不遜ともとれる態度せいで「嫌われ者」扱いされ、監督としての彼の功績によって(四度のリーグ優勝と一度の)日本一になった中日ドラゴンズのファン以外には、ほとんど忘れられていたに等しいそんな人物に、時宜に関係なくあらためて注目し、その人間的な魅力を深く掘り下げてみせた作品だったからではないだろうか。
つまり、世間の多くは、落合博満について、もともと興味を持っていなかったし、あまり良い印象も持っていなかった。
ところが、中日ファンが『嫌われた監督』がすごいすごいと騒ぎ出したところから、くちコミで評判が広がってゆき、それに煽られるようにして読んでみれば、それまで多くの人の持っていたイメージを覆して余りある素晴らしい本だったので、読者個々が宝物を発掘したような気分となり大評判になった一一と、こういう経緯だったのだと言えよう。要は、『嫌われた監督』という本にあったのは、まず「意外性」ということだったのだ。
ところが、本書で扱われる羽生善治の場合は、誰もが認める天才棋士であり、それだけではなく、むしろ天才には似合わないほどに性格円満、温厚篤実な人柄。およそ気取りもなけれは、威張る姿など想像もできないというほどの「好人物」であり、その自然体のフラットさは、ある意味で「完全無欠」の印象を、多くの人にあたえていたのである。
つまり、その意味で羽生は、クセの強い落合博満とは真逆と言ってもいいようなキャラクターであったからこそ、絶対この王者に取材した書物は、長きにわたって山ほども刊行されており、だからこそ今回の鈴木書も、そうした類書として、あまり注目されていないのではないだろうか。
また、将棋というもの自体、もともとそれほど多くの人に注目されるほどの「派手さ」を持たないため、将棋ファンでもない一般人が今、将棋関係の話題で興味を持つとしたら、それは当然、昨年「最年少名人、史上初の八冠全冠制覇」を達成した「藤井聡太」しかない、ということになるだろう。
もちろん、藤井に関する本も、現在腐るほど出ているのではあろうが、しかし、あの『嫌われた監督』を書いた鈴木が、仮に藤井聡太を書いたとなれば、当然その注目度は抜きん出て違っていただろうし、相乗効果もあったことだろう。
だが、鈴木忠平が、今の藤井聡太を書くかと言えば、そんなことはあり得ない。なぜなら、鈴木は、徹底したへそ曲りの「判官贔屓」だからだ。
それは、鈴木の著書が、本書と『嫌われた監督』を含めてまだ5冊しかないのだが、残りの3冊のうち2冊は、元プロ野球選手清原和博を扱った第1著書『清原和博への告白 甲子園13本塁打の真実』と第3著作『虚空の人 清原和博を巡る旅』(2022年)であり、残りの1冊は、一般にはほとんど無名の人を扱った第4著書『アンビシャス 北海道にボールパークを創った男たち』(2023年)であるという事実に、ほとんど明らかなことだからだ。
とくに清原和博の場合、現役当時、球界きってのスラッガーでありながら、チャラチャラした身なりなどの素行で世間の顰蹙を買い、その挙句の「覚醒剤使用による逮捕」などのお騒がせぶりで、すっかり世間から見放されたに等しい、そんな清原を、鈴木は「いまさら」のように扱う人だったからである。
つまり、鈴木忠平が扱うのは、実力や実績がありながら、もはや世間からは忘れられた存在、あるいは、そうなりかけている人物の「真の姿を伝える」という点で、一貫しているのだ。
誰もがチヤホヤする最盛期に扱うのではなく、それが過ぎてから、鈴木は、あらためて、そうしたかつてのヒーローの真価を、移り気な世間に問うてみせるのである。
だから、鈴木が今回、羽生善治を扱ったのも、それは無論、羽生が最盛期を越えて、昔ほどは勝てなくなり、持っていたタイトルを次々と失っただけではなく、前人未到の七冠制覇という偉業さえ、新時代のヒーローである藤井聡太によって塗り替えられてしまったからであろう。
つまり、世間で言うところの「栄光」を失ったところから、鈴木は「羽生善治の真価」を世間に問おうとしたのである。
本書の構成はハッキリしている。
時代の変わり目を象徴するものになるであろう藤井聡太とのタイトル戦を外枠物語として、その中に、羽生の登場を描き、やがて不動の絶対王者となった羽生の存在に圧倒され続けてきた同世代のライバルたちの、羽生との闘いとその乗り越えを描いた上で、最後は羽生が藤井聡太との対決に敗れるところと、その先まで描くのだ。
だが、だからと言って、この構成は、羽生善治の「日の出と落日」を描いて、誰人にも避けられない「人間としての運命」を描いた、というようなことではない。
そうではなく、羽生が「日の出から最盛期を経ての落日」に至るまで、いつも変わらぬ態度で将棋と向き合っていたという、その稀有な事実を描いて、まさにそこに「羽生善治の真価」を描いて見せているのだ。
上の紹介文に、
と書かれているのは、そういう意味なのだ。
羽生善治は、子供の頃から今に至るまでずっと、勝つために将棋を指してきたというのは無論だが、しかし、勝つことを目的とし、それに固執して生きてきたのではない。
そんな「天才的」としか言いようのない非凡な資質を、本書は、羽生が勝負に負けた際の「いつもと変わらぬ」態度、と言うよりは、その「様子」を描くことで、示して見せている。
それは、あまりにも人間離れした、驚くべき「美質」なのではないかと、そう言葉にして指摘はしないものの、そうしたものとして、「畏敬」を持って描いているのである。
本書でも、何度も指摘されているとおり、どんな棋士でも、好きで将棋を始めて、好きで将棋にのめり込んでいった挙句のプロ棋士ということなのだが、しかし、彼らに共通するのは、やはり「勝つことが楽しい」のであり「勝てなければ苦しい」という事実だ。いくら将棋が好きだとは言っても、「勝っても負けても将棋は楽しい」などとは言えないのが、彼らの本音であり、そこが人間の人間たる所以なのである。
だが、羽生善治だけは違っていた。
彼は子供の頃から、負けても泣くことはなく、「次に勝てばいいんだから」と、負けた瞬間から、自分の敗因を検討しはじめるという、そんな態度であった。そして、それは、プロになってからも、以前ほど勝てなくなってからも同じだったし、親子ほど齢の違う藤井聡太に挑戦者として挑み、負けた勝負での感想戦においても、やはり「あそこは、ちょっと読みが浅かったですかね?」などと、まったくフラットに質問したりするところに、対局者の藤井でさえ一瞬、虚を突かれるような、「こだわりのなさ」を見せたのである。
羽生の、この何があっても変わらない、将棋に対するフラットな態度とは何なのかと言えば、やはり、私としては、羽生が「将棋の神様に愛されていた」のだ、としか言いようがない。
結局のところ、羽生が将棋を指していた相手は「将棋の神様」であり、だからこそ、最終的に「勝てない」のはわかっている。
わかっているけれども、それでも、その神の域に一歩でも近づきたいという、抜きがたい思いがあるからこそ、羽生は、目先の勝負を相対化し得ていたのではないか。
普通の棋士が「勝つために強くなろう」とするのに対して、羽生の場合は「強くなるためには、勝ちにこだわる必要があるだけ」だと、そう考えていたのではないだろうか。
つまり、「勝ち」とは、「強くなる」ための方法や手段であって、「目的」ではなかったのだ。だから、勝とうとはしたが、結果としての勝ち負けには拘泥しなかった。
では、羽生善治にとっての「強さ」とは何なのか、ということになるのだが、それは無論、人間にとっての「強さ」ではなかったろう。
つまり、能力的に最も充実する二十代が最強で、あとは経験で補いながらも、徐々に勝てなくなっていくというような「人間的な強さや弱さ」、そんな「人間の宿命」としての「強さや弱さ」ではなく、絶対に勝つことのできない「将棋の神様」に対して、負けても負けても挑んでいくような、そんな「人間の当たり前」を超えた「強さ」だったのではないだろうか。
だからこそ、羽生の飄々とした「自然体」は、ある意味で、人間を超えたものであり、多くの棋士たちが、その超越性にこそ、言い知れぬ畏れを感じたのではないだろうか。
誰と指していても、こちらが羽生と指しているつもりでも、羽生の方は、端から人間など相手にはしておらず、対局相手を通して、その向こうにいる、もっと大きな存在を相手に対局していたからこそ、羽生は目の前の対局相手に負けることに、さほどのこだわりがなかったのではないか。
人間はいつか老いるし、いつかは必ず死ぬ。棋士だって、これまでもこれからも世代交代を重ねていくのであり、どんなに強い者でも、いつかは勝てなくなって将棋盤の前から去っていくのだが、しかしその勝負が、私たちの目にしている盤面にではなく、その向こうの、もっと高い場所、「永遠性」とでも呼ぶべき場所にあるのだとしたら、もはや、目の前の「刹那の勝利」は、方便でしかなくなるのではないだろうか。
将棋というゲームが、単なるゲームで終わらないものであり得るのだとすれば、それは将棋が、その盤面を通して「永遠性」とつながった時しかないのではないか。
しかし、そうした時空に達して得たのは、羽生善治という「将棋の神様」に愛された、その意味での「天才」ただ一人なのではないだろうか。少なくとも、今のところは。
羽生の、あの何物にもとらわれない、飄々としたフラットな自然体とは、人間の自然体なのではなく、勝負などという「人工的なもの」を超えた、まさに「自然」という神域から吹き出してくる、澄み切った空気のようなものだったのではないだろうか。
(2024年7月6日)
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