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辻寛之 『インソムニア』 : さらば長き眠り

書評:辻寛之『インソムニア』(光文社)

本書を謎解き小説(ミステリ)として読んだ場合、真相は必ずしも想像予想を超えるものではなく、その点を指摘するレビュアーの存在は当然ものである。しかしまた、それを補って余りある本書のテーマの切実さは、本書が「カンボジアPKO派遣・文民警察官殺害事件」「南スーダンPKOをめぐる一連の情報隠蔽事件」を下敷きにして書かれ、その極めてアクチュアルなテーマ性を、作者が新人らしからぬ巧みさで「小説化」した功績にあり、高く評価されて然るべきものだと言えよう。

そのうえで、私が指摘しておきたい点は「本書は、なぜ公刊できたのか?」という問題である。

端的に言えば、それは、本書のラストで描かれるような、極めて「悲惨な戦場体験」が「現実のPKOでは、日本人は体験しなかった」という一般的了解が、日本国民の間にあるからである。

喩えて言えば「東日本大震災にともなう大津波を、死体移動トリックをつかった本格ミステリ」などといったものは、とうてい公刊できない。いくら「小説」だ「フィクション」だといっても、現に被害を被った多くの人たちの感情を思えば、とうてい「娯楽小説」に出来るような題材ではないからだ。

これは「PKO」についても同じで、もしもカンボジアや南スーダンで、本書に書かれたようなことが現に起こったと「日本国民一般」が知っていたとしたら、本書のような小説は、とうてい刊行できなかったろう。
言い変えれば「そんなことはなかった」とみんなが了解しているからこそ、本書に描かれた事件は「小説=フィクション」として「楽しみ消費される」ことが許されているのだ、とも言えよう。
一一しかし、本書に描かれたような事件が、本当に、現実には無かったのであろうか? それは絶対に確かな話なのか?

じっさい、本書に描かれたような事件が現に発生していたら、本書で描かれたように、政府が事件を隠蔽するのは無論のこと、その当事者が口を噤むのも間違いない。
それは先の戦争(太平小戦争)の戦場で、「虐殺」や「強姦」あるいは「人肉食」といったことを経験した、兵士たちや大陸からの引揚者たちが口を噤んだ(噤まざるを得なかった)「悲惨な歴史的経験」に照らして、確実な話だと言えよう。
だから、カンボジアや南スーダンで、本書で描かれたような悲惨な事件が現実にあったとしても、私たちはそれを知る由もないのだが、私たち(つまり、私自身を含む)日本国民の大半は「さすがにそんなことは無かったろう」と思っているし、そう思っているからこそ、本書が刊行されたことに何の抵抗も覚えないのである。

しかし、この先、自衛隊の海外への派遣が進んでいけば、それは間違いなく「より悲惨な戦場」への派遣となるのだから、本書で描かれたような体験、あるいは先の戦争で日本兵たちがしたような体験をすることも「必然的に起こる」ことになる。それが「現実」になるのである。いや、すでになっているのだ。

つまり、私たちの「戦後平和」という「長い眠り」は、もはや失われようとしている。
私たちは、否応なく「悲惨な現実への目覚め」を要求されているのだ。

本書のような「目覚まし時計のベル」は、今後もくりかえし、私たちを呼び起こそうとするだろうが、貴方はいつ、その温かい寝床から起き出ることができるだろうか。

『一同がゲツセマネという所に来ると、イエスは弟子たちに、「わたしが祈っている間、ここに座っていなさい」と言われた。
そして、ペトロ、ヤコブ、ヨハネを伴われたが、イエスはひどく恐れてもだえ始め、彼らに言われた。
「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、目を覚ましていなさい。」
少し進んで行って地面にひれ伏し、できることなら、この苦しみの時が自分から過ぎ去るようにと祈り、こう言われた。
「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」
それから、戻って御覧になると、弟子たちは眠っていたので、ペトロに言われた。
「シモン、眠っているのか。わずか一時も目を覚ましていられなかったのか。誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い。」
更に、向こうへ行って、同じ言葉で祈られた。
再び戻って御覧になると、弟子たちは眠っていた。ひどく眠かったのである。彼らは、イエスにどう言えばよいのか、分からなかった。
イエスは三度目に戻って来て言われた。
「あなたがたはまだ眠っている。休んでいる。もうこれでいい。時が来た。人の子は罪人たちの手に引き渡される。』
(マルコによる福音書)

初出:2019年4月8日「Amazonレビュー」
  (2021年10月15日、管理者により削除)

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