法月綸太郎 『ノックス・マシン』 : 法月綸太郎は、なぜ嫌われる?
書評:法月綸太郎『ノックス・マシン』(角川文庫)
本作は、2013年に刊行され、その年の『このミステリーがすごい!』で第1位に選出された、たいへん評判の良かった作品で、法月綸太郎の代表作の一つだとも言えるだろう。
私も『このミス』の評判をうけて、その年のうちに単行本を買っていたのだが、例によって積ん読の山に埋もれさせてしまい、今頃になってようやく読むことができた。
内容的には、評判になっただけのことはある、じつに凝りに凝った作品集なのだが、アマゾンの読者レビューを見てみると、一般の評判は必ずしも良くないようで、そうとう腹を立てている人もいる。
要は、『このミス』などの結果を受けて、期待をして本作品集を手に取った読者の少なからぬ人が、本作品集の「凝りに凝った」部分についていけなかったようなのだ。ミステリマニアやSFマニアの「マニア心」をくすぐり、「エリート読者」たるの自尊心を満足させる作りの作品集だったからこそ、エンタメ(大衆娯楽)作品であることを期待した「一般読者」を裏切る結果になってしまったのである。
しかし、法月綸太郎という作家は、もともと「マニア気質」の作家であり「エリート志向」のある作家なのだから、彼に、ごく常識的なエンタメ(大衆娯楽)作品を期待するのは、そもそも無理のある話。
しかしまた、『このミス』の結果を見て、第1位の作品を読んでみようという「一般の読者」が、法月綸太郎という作家がどういう作家なのかを知らないというのもやむを得ないところであるし、『このミス』の投票者が「業界関係者」や「マニア」で占められている以上、こうした齟齬はやむを得ないところなのかもしれない。つまり、無難に面白い「エンタメ」を求める読者は、『このミステリーがすごい!』や『SFが読みたい!』(ましてや『本格ミステリ・ベスト10』)などを参考にすべきではなく、広範な小説作品を対象とした「本屋大賞」などの、「マニア度」の低い「人気投票」を参考にすべきだったのであろう。
ただ私としては、「マニアやエリート読者以外はお断り」的な、法月綸太郎の作風に問題なしとも思わない。
何よりもそれは、プロ作家としての法月綸太郎本人にとっても不本意だろうし、ブームの過ぎてひさしい本格ミステリ業界にとっても、決して喜ばしいことではないからだ。
つまり、プロの作家による商品としての作品であるならば、広く多くの読者に購読され、喜ばれるに越したことはないからで、それは法月個人にとっても同じはずなのである。
じっさい、法月綸太郎はとても器用な作家なので、エンタメを書こうと思えば書けるし、そういう試みも為している。例えば、本作に先んじて2005年に『このミス』第1位に輝いた『怪盗グリフィン、絶体絶命』などは、ジュブナイル作品として書かれたものなので、決して難解な作品ではなく、多くの人が楽しめる作品となっている。
しかしながら、この作品もまた「凝りに凝った作品」であることに変わりはなく、「ジュブナイルの魅力って、こうだよね」といった「マニア心」をくすぐる作品であって、実際に年少の読者に喜ばれ、広く読者を獲得する作品になってはいなかったというのも、偽らざる事実だと言えよう。つまり、法月綸太郎という作家は、根っから「マニア気質」の作家であり「エリート志向」の作家なので、たとえ意識的に「一般受け」をねらった作品を器用に書いたとしても、その器用さを高く評価するのもまた「マニア」や「読書エリート」層であって、一般的な読者ではないのである。
法月綸太郎が、いかに「ぼくは、別にエリートなんかじゃありません。皆さんと同じ、単なる小説好きですよ」などとアピールしてみたところで、そのアピール自体が、いかにも「鼻持ちならないエリート臭」を漂わせていることに、多くの「一般読者」は気づかされてしまうのである。
つまり、法月綸太郎は、それほどのエリート的な「臭み」を持っており、その上、それに見合うだけの力量を持っているからこそ、マニア層には「共感」を得るのだけれど、一般読者層からは必然的に「反発」を買いやすい作家でもあるのだ。
こうした法月綸太郎の「臭み」というのは、例えば、本作品集で扱われる実在のミステリ作家の描き方にも、よく表れている。「所詮は小説の中での描写でしかない」とは言え、逆に「だからこそ」本音が出てしまう。「これはフィクションなんですから」という「アリバイ」があるからこそ、その本音が漏れてしまうのだ。
具体的に言えば、マニアすら含む多くの人の指摘する、本作品収録短編「引き立て役倶楽部の陰謀」での「ヴァン・ダイン」の扱いなどが、その最たるものである。
ミステリマニアには周知のとおり、ヴァン・ダインという作家は「本格ミステリらしい本格ミステリの形式」を整えた、本格ミステリ黄金期における偉大な「本格ミステリ作家」の一人であり、エラリー・クイーンが強く影響を受けた作家である。
したがって、エラリー・クイーンを真似た作家としてデビューし、いまだにそのことを売りにしている法月綸太郎という作家が、ヴァン・ダインという作家に対して敬意を払わないというのは、むしろ不自然なことだと言えるだろう。
もちろん、現在の視点から見れば、ヴァン・ダインの作品は「古い」かもしれないし、何より評論家でもあったヴァン・ダイン(ウィラード・ハンティントン・ライト)は、「引き立て役倶楽部の陰謀」の中でも描かれているとおり、自らの「美意識」や「理想」に固執しすぎるのあまり偏狭狷介に過ぎて、アガサ・クリスティーなどによる新しい試みに対しては、無理解すぎたかもしれない。
しかし、クリエーターが自らの「美意識」や「理想」に固執しすぎることは、いちがいに責められるべきでないというのは、例えば、法月綸太郎という作家が「マニア気質」の作家であり「エリート志向」のある作家という「個性」を持っているのも「仕方がない」というのと、同じことなのではないだろうか。
じっさい、作家というのは、自分の趣味嗜好に対する強固なこだわりを持っていればこそ、非凡な作品をものにすることもできるのであって、「世間ウケ」ばかりをねらって「マーケティング」に勤しんでいるような作家に、ろくな作品など書けるわけがないのである(それで「売り抜ける作品」が書けたとしてもだ)。
したがって、法月綸太郎のような作家が、ヴァン・ダインの「マニア気質」や「エリート志向」を責めるというのは矛盾した話なのだが、人間には「近親憎悪」というものがあり、えてして「似ているからこそ許せない」ということもあり、法月綸太郎におけるヴァン・ダイン嫌悪なども、まさにそれなのではないだろうか。
法月綸太郎は、進んで「日本のエラリー・クイーン」たろうとしている作家だが、その印象は、実のところエラリー・クイーンよりも、ペダンチック(衒学趣味)でエリート趣味の持ち主であるヴァン・ダインにこそ近い、と言えるだろう。だからこそ、法月綸太郎は「一般(大衆)読者」から「鼻持ちならない」作家だと嫌われるのである。
法月論太郎のこうした「エリート意識」は、表題作「ノックス・マシン」とその続編である「論理蒸発一一ノックス・マシン2」に登場する、実在のミステリ作家にしてカトリックの高位司祭であったロナルド・ノックスへの「好意的な扱い」にも表れていよう。
要は、ノックスは「ミステリ作家として非凡であっただけではなく、カトリック教会の高位聖職者にまで上り詰めた、優れた知性と霊性を兼ね備えた人だった」というのが、作中におけるノックス評であり、これはそのまま、実在したノックスに対する法月綸太郎の評価だと見て間違いあるまい。
しかし、ノックスが、ヴァン・ダインに勝るミステリ作家であったかのような評価というのは、ミステリマニアの間でも、必ずしも説得力を持つものではない。つまり法月綸太郎のノックス好意的評価は、ノックスの「カトリックの高位聖職者」であったという事実に依存しすぎているのだ。
法月綸太郎は、ノックスの「知性」を持ち上げるのに、その「カトリックの高位聖職者」という「霊性(要は、人間性や人柄)」の部分を強調的に持ち出すが、これは実際のところ、単なる「権威主義」にすぎない。
と言うのも、ノックスの「知性」と言うことを本気で問題にするのであれば、その「信仰」と「理性」の矛盾を問わなければならないはずだからだ。
博識の法月綸太郎なら当然知っているであろうとおり、カトリックの信仰においては「イエスの処刑後3日目の、肉体を持った復活」だとか「マリアの無原罪の御宿り、処女懐胎、肉体を伴った被昇天」などという、非科学的にもほどがある「教義」を、ノックスその人を含むカトリック信者たちが「そのまま信じていると、信仰告白している(神に証言している)」という「決定的事実」を知らないはずがない。
それなのに、そうした矛盾には一言半句「疑問」をさし挟まないでおいて、その「高位聖職者という肩書き」でノックスを持ち上げるというのは、あまりにも「非論理的」であり、論理的に「不誠実」ではあるまいか。
しかしまた、法月綸太郎が「マニア気質」や「エリート志向」であるという事実を鑑みれば、彼がそうした「人間的誠実さとしての、論理的一貫性」よりも「カトリックという権威」を選ぶのも、ごく自然なことだと言えるだろう。
じつのところ、法月綸太郎にとっては、「本格ミステリ」や「エラリー・クイーン」も、そうした「自らを飾るための権威」であることに、何の違いもないのである。
「カトリック」とは「公同の」という意味であり、要は「世界のどこに行っても同じである、正統なるキリスト教会」という意味であり、後続新参の「プロテスタント」との差異化をはかるための、權威づけ形容詞に他ならない。
要は「我々こそが唯一正統のキリスト教であり、他のは異端。よく言っても、傍流でしかない」という「エリート意識」に発する、臆面もない自己形容なのだ。
そして、こうした形容のしかたは「本格ミステリ」の「本格」という自己形容に、そっくりなのではないだろうか。
「我々こそが本格であり、他は非本格である。当然、我々の方がその(ミステリとしての)本質において優れている」という意識の表れである。
また、こうした「エリート意識」があるからこそ、在来の「日本推理作家協会」では「本格作品は協会賞を受賞しづらく、我々は損をしている」という「エリート意識の裏返しとしての、被差別意識」をつのらせたあげく、「本格ミステリのための賞である、本格ミステリ大賞」の授与主体である「本格ミステリ作家クラブ」を立ち上げることにもなったのだ。
本格ミステリ作家もまた「人間」であるならば、権威が嫌いなわけはなく、欲得のないわけでもないのは、当然のことだったのである。
(ちなみに最近、本格ミステリ作家クラブが、本格ミステリ大賞20周年ということで『本格ミステリの本流』という評論アンソロジーを刊行した。歴代の本格ミステリ大賞受賞作について、同会に所属する作家たちが作品論を書いた、言うなれば、權威づけのための、わかりやすい「お手盛り」本である)
ともあれ、そんな人間的な呼称である「本格ミステリ」の「権威」に魅せられている作家の中でも、自他共に認めるその代表格たる法月綸太郎が、「信仰と理性の矛盾」という「わかりやすい問題」に目をつむってでも、ノックスという「カトリックの高位聖職者」に共感を示したというのは、大変わかりやすい態度と言えるのだ。
いくら偉そうにしてみても、ヴァン・ダインなど所詮は一介の「小説家・批評家」でしかないけれども、ノックスは世間一般的にも権威のある「カトリックの高位聖職者」なのだから、「權威」に強い憧れを感じる者ならば、ヴァン・ダインなどより、ロナルド・ノックスの持ち上げ、「そのようになりたい」と願うのは、自然な人間的感情だと言えるのである。
しかし、「カトリックの高位聖職者」というのは、「形式的」には非凡に高い「權威」ではあろうけれど、その内実が必ずしもそんなものであり得ないというのも、世俗的常識のある者にはわかりやすい事実であろう。
つまり、「形式=建て前」としては清廉高潔なはずの「カトリックの高位聖職者」もまた、少なからず「人間」的であったが故に「カトリック司祭による、信者子弟に対する性的虐待事件の多発と隠蔽(スポットライト事件)」だの「バチカン銀行でのマネーロンダリング」だのといった、きわめて「人間的な問題」が噴出表面化したあげく、前ローマ教皇(法王)であったベネディクト16世が異例の生前退位をし、その後を受けたリベラルな現教皇フランシスコが、保守派の強い抵抗に遭いながらも、断固として強力な教会改革に取り組まなければならなかった、というのが、ローマ教皇も認める「カトリック高位聖職者の現実」なのである。(フレデリック・マルテル『ソドム バチカン教皇庁最大の秘密』等参照)
つまり、法月綸太郎が憧れる「ノックス的な権威」というのは、基本的には「張子の虎」なのである。
見かけはすごいが、中身まではあてにならない代物でしかないのだが、しかし、法月綸太郎という人は結局ところ、そういう「見かけ」が好きなのだ。
だからこそ、「ノックス・マシン」の作中で、ノックスをことさらに人格者として「描く」その一方で、「引き立て役俱楽部の陰謀」においては、ヴァン・ダインをことさら「嫌な奴」に「描いて」見せたのだ。法月にとって重要なのは、「見かけ」だったのである。
したがって、法月綸太郎という人が「鼻持ちならない奴」だという評価は、まったく正しい。
それは、本格ミステリやハードSFを理解できない「頭の悪い一般読者の妬み」とばかり言えるものではなく、「權威に縁のない一般人」特有の「嗅覚」だったとも言えるのである。
もちろん、そんな「一般人」たちの多くも、法月綸太郎がそうであるように、才能とチャンスさえあれば、「権威」ある人間になりたい、そうした地位につきたいと思うことだろう。その意味では、法月綸太郎と彼らに何ら選ぶところはなく、彼らの「正しい嗅覚」もまた「妬み」に発するものだと言えるのではあるが、原因や動機がどうあれ、彼らの「法月綸太郎評価」が正しいというのは、間違いのない事実だとは言えるのである。
初出:2020年12月21日「Amazonレビュー」
(2021年10月15日、管理者により削除)
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