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瀬木比呂志『檻の中の裁判官 なぜ正義は全うできないのか』 : 〈心ある裁判官〉を見殺しにしてはならない。

書評:瀬木比呂志『檻の中の裁判官 なぜ正義は全うできないのか』(角川新書)

元裁判官による、日本の裁判官システム(裁判官制度)の批判書である。
本書が剔抉してみせるのは、日本の裁判官は「司法試験を合格した学生がそのまま裁判官として採用され、実地に経験を積みながら、より中央の、より上級審へと〈出世〉していく、競争社会」というシステムの中に、囲い込まれて生かされており、「人事」を掌握している「最高裁判所 事務総局」の「人事圧力」によって、「良心」を歪まされ、「判決」をコントロールされている、という嘆かわしい現実だ。

タテマエとしては、裁判官というのは、個々に独立した「自由心証主義」において、自身の知識と見識において、判決を下すことになっているし、何者もそれに干渉することはできない、ということになっている。だが、現実にはそうではない。

この程度の、世界に恥ずべき「日本の汚れた現実」は、前安倍晋三政権下での「森友・加計学園問題」や「財務局の文書改ざん問題」あるいは「自衛隊の日報隠蔽問題」など、数々の「政治腐敗」に伴う「官僚の腐敗・堕落」を目にしてきた大人になら、容易に推察しうるところだろう。
そして、こうしたことの延長線上にあるのが、司法の世界においては、「原発再稼働」問題での、下級審の勇気ある「差し止め判決」を、次々と覆していった上級審判決だ。「御用裁判所」の「御用裁判官」による「御用判決」である。

私は、これまでにも何冊かの「日本の裁判官システム批判」の書を読んできたが、それが元裁判官のものであれ、ノンフィクションライターのものであれ、内容に大きな違いはない。
要は、国家権力の補完組織となっている「最高裁判所 事務総局」の意向に従わなかった裁判官、政府が喜ぶ判決を下さなかった裁判官は、昇進や転勤で差別や嫌がらせをうけ、冷や飯を食わされて、潰される、という現実である。民主主義国家にあるまじき、まるでロシアか、中国かのごとき現実だ。

もちろん、昔からずっとこうだったわけではなく、「三権分立」のタテマエが比較的生きていた時代もあったのだが、日本の裁判官システムは、裁判官の自律性がシステム的に担保されていないために、もともと脆弱であった。
だから、世間と同様、経済が長期低落傾向になると「貧すれば鈍する」で、「出世」や退職後の「天下り」などで保身をはかる、出世主義のヒラメ裁判官が増え、そうした人たちが、良心を投げ捨てて立身出世していったために、日本の裁判所は、今や「明治維新」以後最悪の「非民主的裁判所」となってしまっているのである。

つまり、立派な裁判官や、若く志のある裁判官はいるにしても、彼らは早晩、多かれ少なかれ屈辱を味わわされ、涙を飲まされ、潰される、という非道がまかり通っているのが、今の裁判官システムなのである。

当然のことながら、これは改革されねばならないし、世界標準からして、こんな「不正義なシステム」を採用している先進国は少ないのだから、システムを変えるのは、理論的には決して不可能なことではない。
しかし、現在のシステムに巣食って、権力を貪り、甘い汁を吸っている「最高裁の官僚」たちは、決して「本質的な改革」など許さず、さらに政治権力者に擦り寄ることで、現体制の維持を図っている。一一では、どうすればいいのか。

著者は、結局のところ、日本の裁判所を変えようと思えば、是非とも必要なのは「国民の強力な後押し」だと言う。
当然のことだろう。反逆者や批判者は無論、非服従者さえ潰される体制ができてしまっている以上、内部からの改革は、ほぼ不可能なのだ。
かと言って、退職後に元裁判官がどんなに告発をしようと、「国民」が動いてくれないことには、政府も政治家も、そうした声に決して耳を貸さないからである。

『 日本は、世界の中で相対的にみれば確かに民主主義の基本的な指標を満たした国家であり、国民の文化的洗練度は相対的に高いし、社会的な洗練度も高まってきたといえよう。
 しかし、先のような近代民主主義社会、近代自由主義の原則についての認識、理解については、どうだろうか。「難しいことはよくわからないし、自分の力ではどうにもならないと思うから、お上・権力にお任せ。そして、お上・権力の方でちゃんとやってくれるのが当然」という(※ 民主主義を誤解した)姿勢が今なお目立つのではないだろうか。さらに、「ちゃんとやってくれているという幻想に浸って安心していたいから、権力の問題なんて知りたくない」という無意識的な姿勢もみられるのではないだろうか(本書でも論じてきたとおり、後者はことに司法について特徴的にみられる姿勢だ)。
 けれども、それでは、(※ 本質的な司法制度改革のための具体案として、著者の提案する)法曹一元制度の実現や裁判官人事のための中立的機関の創設などといった大きな課題は達成できないし、たとえ制度ができたとしても、それをうまく機能させてゆくことは難しい。
 こうした制度改革の成功のためには、作業の細目は専門家にゆだねるとしても、前提として、他分野の知識人をはじめとする一般市民、国民が基本的な方向性について理解とコンセンサスをもっていること、専門家の作業を適切に監視、チェックするとともに必要に応じて意見を述べるなどして主体的にかかわり、協力する姿勢を保つことが必要なのである。
 まず第一に市民、国民の意識、関心の高まり、要請があって行われる改革は充実した、血の通ったものになる。一方、官主導の上からの改革では、思い切ったことはできないし、その成果も上がりにくい。本書でもふれた近年の司法制度改革の結果をみれば、そのことは明らかだろう。
 繰り返せば、日本司法の抜本的改革、ターニングポイントとなる裁判官制度の前記のような改革については、まずは、市民、国民の司法制度・裁判官制度に関する意識と関心の高まり、また法的・制度的リテラシーの充実が必要なのだ。それが、やがて弁護士を中核とする法律家集団を動かし、制度改革の中核を成す力となってゆくのである。』

(P307~308、印は印象者補足)

「なんだかんだ言って、人を当てにするなよ。自分たちの職場は、自分たちでなんとかしろよ」なんて思った人が、きっといるだろう。
だが、本書に書かれたことは、決して他人事ではない。私たちの国の、私たち自身の問題なのだ。

著者も、国民のリテラシーを、一朝一夕に高めることができるとは考えていない。しかし、私たち一人一人が、まず「私一人」から、こうした「現実」を知り、「このままではいけない」という当たり前の危機意識を持ち、機会があれば、意思表示をしなければならない。そこからしか、何も始まらないのだ。
そして何よりも、「良心的な裁判官たちの、勇気ある抵抗」を無駄にしてはいけない。彼らを犬死させていてはならないのだ。
だからこそ私は、本書を読み、そしてこのレビューを書いているのである。

一一あなたに何ができるのか。まずは、それを考えてほしい。そして、ツイートでもいい、葉書一枚からでもいいから、できることを見つけて、心ある裁判官たちをバックアップしてほしい。

生きるに値する、そして誇るに値する「私たちの祖国・日本」であるために、あなたの力を貸して欲しい。

初出:2021年3月14日「Amazonレビュー」
  (2021年10月15日、管理者により削除)
再録:2021年3月27日「アレクセイの花園」
  (2022年8月1日、閉鎖により閲覧不能)

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