チャットGPT、 AIイラストジェネレーターの 「近未来」 : AI時代の作家性
昨日(2023年2月15日)、テレビニュースを視ていたら、「チャットGPT(ChatGPT)」なるものが話題になっていた。要は、問題を入力したら、文章のかたちで回答してくれるソフトである。
こう書くと、大したことのないようにも思えるが、これまでの「検索ソフト」であれば、あることを調べたいと思い、「AI イラスト きれい」などの関連キーワードを入力すると、それに関連した記事をずらりと紹介してくれ、その中から自分が求めていたものに近い記事のいくつかを読んで、それらの情報を総合して、自分なりの正答に至る、というような段取りだったわけなのだが、「チャットGPT」の場合は、最初から一発で「ひとつのまとまった(完結した)文章」としての回答を与えてくれるのだ。
だから、物事を深く知ろうとか、自分で考えようなどとしない人なら、それで「正解」が与えられたと満足してしまうので、検索エンジンの結果のように「多様な関連情報の存在すら、気づかないまま」になってしまう。
その上、ごく卑近な使い方としては、学校の宿題やテストなどで、こうしたソフトを不正利用することができる。
いわゆる「論文問題」であれば、その問題(課題)をそのまま入力すれば、無個性的で優等生的ではあっても、決して間違ってはいない「解答論文」を、完成形で返してくれるのである。
で、こうした問題に対しては、すでに対抗措置をとっている学校や企業なんかもあるようだが、この問題についてコメントを求められた、テレビコメンテーターの芸人さんが、
と、おおむねこのようなことを吐き捨てるように言っていた。まったく「正論」だと思う。
まあ、少なくとも入学テストなどでは、真面目に受験した者が損をすることになるわけだから、少なくとも当面は、実際問題として、放置しておくわけにはいかないだろう。
だから、ひとまず「禁止する」のが一番簡単なのだが、将来的にはそうもいかず、仮にそうしたものを(鉛筆や消しゴムのように)使うのが当たり前になったとしても、「全員」を同じ条件にしなければならない。だが、その場合、同じような「正解」ばかりの回答が返ってくる、といったことにもなりかねず、テストをする意味がなくなってしまう。
また、だからと言って、インチキができないように「口頭試問」などにすると、個別テストになるから大人数を裁けない、などの問題も出てくるだろう(面接試験も、すべてAIに任せられるようになれば、解決か?)。
したがって、このような「目先の現実問題」への対処も、もちろん必要なことではあるのだが、将来的には、こうしたAIソフトが一般的に使われるようになるという趨勢は避けられない。
そもそも「パソコン検索」にしてからが、「辞書をひく」なんて作業より、だいぶお手軽になっているのだし、さらに辞書のない時代には、その知識を持つ人のところまで教えを乞いに行くなんてこともしたわけだから、便利になる、人間が楽をするという傾向自体は否定できず、それらの道具を取り上げられた際の「裸の人間の能力」の低下は、もはや避けられないと考えるべきだろう。
一一と言うか、すでに人間は、そうした道具を「身体の延長」として駆使する生物(サイボーグ)になっていて、それを駆使できない者の方が、むしろ「身体欠損者」的に扱われることになるだろう。例えば「パソコンも使えないような高齢者は雇えない」とかいったようなことと、同じ扱いになるわけである。
だから、これからの人は、そうした「新しい道具」を使いこなせるようにならなくてはならない。
ただし、それは「最低限の能力」でしかなく、それは「歩ける」「話せる」といったことと同レベルのことでしかなくなるだろう。つまり、課題が与えられて、それに「優等生的な正解」を返すだけなら、それはすでに「人間の仕事」ではなくなってしまう。そこではすでに「人間は不要」になっているのだ。
では、「人間」には、どのような能力が求められるようになるだろうか?
それは多分「高度に、前例のない問題」を発見する(生み出す)能力ではないだろうか。
「高度に、前例のない問題を発見する能力」とは、要は「問題に対して、優等生的な正解を与える」だけならAIがやってくれるのだから、重要なのは、AIが答えるべき「問題」を作る側の存在になる、ということだ。「問題」を立ててもらわなければ、AIだって、それへの「解答」などできないからである。
つまり、この場合の「高度に、前例のない問題を発見する能力」というのは、結局のところ、「普通では予測できないような事態を、想像する能力」だということになる。
AIは優秀だから「現時点での諸条件から、必然的に導き出される未来の状況(問題)を導き出す」といった程度のことなら、きっと出来るはずで、人間がやるべきは、そうした「当たり前の推測・予測」を超えた次元の事態を、推測し予測する能力、ということになる。
だとすれば、それは「単純な(形式論理的な)情報処理による、推測・予測」などといったものを超えたところ、つまり、AIには不可能なほどの、極めて「高度な」知的作業ということにならざるを得ない。言い換えれば、天才的な「直観力」や「発想力」が、そこでは求められるのである。
一一だが、そんな能力は、ごく一部の天才しか持たないものだし、そもそも、これからどんどん便利になって、「チャットGPT」のような道具に頼るような生活になれば、多くの人はますますバカになる一方だろうし、生まれながらの才能があったとしても、それを育てる機会を失う蓋然性も高く、その結果として訪れる世界は「一部の天才的な人間以外は、人間の存在しなくていい世界」ということになるのではないか。
大抵のことはAIが正しく判断し、それをロボットにやらせるわけだから、知的能力でAIに劣り、身体能力でもロボットに劣るような人間は、使い道のない「タダ飯食いの資源泥棒」でしかない、ということになってしまうのだ。
で、そうなったとして、果たして「一部の有能な人たち」が、そうした「その他大勢のタダ飯食い」たちを生かしておくだろうか?
一一私は、そんな楽天的な展望を持てるほど、人間という動物を信用してはいない。
つまり、普通の考えれば、人間の将来は、少なくとも「大半の者」にとっては「暗い」ものにしかならないように思えるのである。
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だが、そんな大きな問題はおくとして、もっと身近な話をしよう。その方が、切実に感じられるだろうからだ。
例えば、これも最近テレビなどでも話題になっている「AIイラストジェネレーター(生成機)」というのがある。
簡単に言うと、キーワードをいくつか入力するだけで、ネット上に氾濫する無限の画像データを適当に組み合わせて、それらしい(オリジナルの)絵を作ってくれるという、ソフトである。
これは、言ってみれば、昔の「コラージュ」の進化系だと言っても良いだろう。「(与えられた)テーマ」に合わせて「素材」を集めてきて、それを切り貼りすることで、新しい作品を作るのだ。
ただし、今の「AIイラストジェネレーター(生成機)」の場合は、素材を「切り貼りする」のではなく「(素材を要素に還元した上で、必要な情報を抽出し)融合させる」から、「継ぎ目」というものがないし、「素材」そのままの「部分」が残るということもない。
そのため、いちおう「オリジナル」ということになるのだが、これはかつて「コラージュ作品」において「著作権」問題が惹起され、有罪判決も下されたこともあるとおりで、「素材として、自作を無断使用された、原・作者」には、黙って見過ごせない問題となるのは間違いない。
複雑に作り込まれた「AIイラスト」だと、素材の特定が難しいとは言っても、所詮、生成する作品の「テーマ」を決めるのは人間だから、「好み」による「選択」が働いており、その作品を見れば「だいたいどのあたりから素材を引っ張ってきたのか」の見当はつくからである。
そしてこうなると、「素材として、自作を無断使用された、原・作者」が「AIイラストの作者」を告訴した場合、そのイラスト作者は「どのような素材を使用したのか」と裁判で問われるだろうし、素材データの提出を求められることになり、その結果次第で、「無断盗用」の有罪無罪が決まるようにもなって、その果てには、「AIイラスト」を発表する場合は、その段階で「使用素材を明示する」といった、面倒で興ざめな条件が、法的に課せられるようになるかも知れないのである。
で、これはあくまでも「法的な問題」だが、私個人は、AIイラストを描くつもりはないので、これも個人的には大きな問題ではないとも言えよう。
だが、より興味ある問題としては、これからのイラストレーターは、「絵を描く能力は無くても」、絵を見るセンスがあって、非凡な美的センスがあれば、「優れた絵が描ける」ということである。
つまり、ひと昔前なら、どんなに「センス」が優れていようと「技巧」が伴わなければ、優れた絵は描けなかった。ところがこれからは、技巧の部分はAIが肩代わりしてくれるのだ。言い換えれば、自分の「センス」を、そのまま作品に落とし込めるだけの「技量」、などというものは問われなくなってしまうのだ。
これは、例えば「集団創作」である「アニメ」や「映画」や「舞台演劇」といったものと似ているかも知れない。
作品制作者を代表する「監督」自身は、その下にいる「作画監督のアニメーター」ほどの絵が描けなくてもかまわない。また、声優ほどの演技力がなくてもかまわない。
「監督」(あるいは、プロデューサー)は、自身の「センス」に基づく「ビジョン」にしたがって、それを実現するために必要な、「面白い話を作れる人」「絵の上手い人」「演技のできる人」などの「スタッフ」を集めてきて、その人たちの力を借り、そうした力を組み合わせることで、「自分の作品」を作り上げるのである。
つまり、AIイラストレーターは、自身の「センス」に合わせて、「素材」を集め、それを「AIイラストジェネレーター」に突っ込み、その素材を「ああしろこうしろ」と指示するだけで、個人でやったら膨大に時間を食ってしまうような作品を、瞬時に作ることができるようになってしまうのである。
だとすれば、これからの問題は、本稿のテーマである「AI時代の作家性」ということになる。
つまり、これから「作家」に求められる「才能」とは、どのようなものなのか、ということだ。
単純に「綺麗で一般受けする作品」なら、今や誰にでも簡単に作れてしまうし、またそのために、似たような作品が今以上に氾濫して、その「美的価値」下がってしまう。
したがって、「作家」に求められるのは、一般受けはしなくても、新しいものを生み出すための「センス」であり「オリジナリティー」だと言えるだろう。
もちろん、そうして生み出されたものも、すぐに「素材データ」として利用され、陳腐化するかも知れないが、しかし、そういう人がいなければ、「よく描けているけれども、新味のない作品」ばかりが氾濫することになるから、そういう「新しい才能」は、是非とも必要だとなるだろうし、そうなると、そうした「新しい才能」は、「新しい素材データ」として、高価にやりとりされる商品となって、簡単に「無断盗用」などできなくなってしまうのではないだろうか。
主にアマチュアが、イラスト(や漫画、小説)を発表するプラットホームである「pixiv」などを見ると、すでにこうした傾向ははっきりと出ている。
プロでもものすごく時間がかかるような「綺麗で凝ったイラスト」を、アマチュアが毎日何枚も発表したりしているのだ。昔なら、プロの人気作家になったようなレベルの作品が、プロの作品を「素材データ」として活用することで、簡単に描けるようになってしまっているのである(その意味で、AIイラストは、二次創作、三次創作、n次創作だと言えるかもしれない)。
したがって、今後は「綺麗なだけ」「可愛いだけ」「凝っているだけ」のイラストなど商品にはならなくなるだろう。すでに、イラストレーター自身は、絵など描けなくても、それなりに魅力的な作品を「作る」ことが可能になったのだ。血の滲むような努力でデッサンの練習をする必要など、なくなってきたのである。
無論、そうした能力(デッサン力等)も、無いよりはあったほうが良い。なぜなら、訓練によって高められた「描く能力」は、多くの場合「見る能力(鑑賞するセンス)」にも繋がるから、基礎のできている人の方が「有利である」というのは、間違いない。
だが、そうした「高度な努力によってのみ得られる、高度な能力」とは、ある意味では「贅沢品」であり、多くの人々(消費者)は、そこまで「厳密なもの」を求めもしなければ、そもそも区別もつかないだろう(例えば、デッサンの狂いに気づかない)から、そうした「高度の能力」を、損を覚悟で自ら求め、それに時間をかけて身につけるといった人は減少していき、結局は、一見したところ「美しくて魅力的な作品」ではあっても、目のある人が見れば「安作りの作品」だと見抜けてしまうものばかりが氾濫する、といったことになるのではないだろうか。
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そして、これは「文章」についても言えることだ。
昨今は、深い教養ではなく、すぐに役にたつ「ひととおりの教養(知識)」が求められており、それが「ファスト教養」という言葉で知られるようになってきた。
たとえば、映画について「深い読みや解釈」なんかには興味がなく、みんなとの雑談に役立つ程度の知識さえあれば充分だと考えるから、映画を3倍速で鑑賞したり、「映画のあらすじとポイント紹介のサイト」といったものが人気を博しているそうだ。
実際、この「note」においても、そんな「個性もオリジナリティーもない、無内容で幼稚な記事」が氾濫しているが、それは、こうした「薄っぺらいものこそがありがたい」という風潮があってのことだろう。
だが、問題は、「チャットGPT」のような「無難な正解論文」の作成機械が登場すれば、「個性もオリジナリティーもない、無内容で幼稚な記事」などは、AIによって完全に「淘汰されてしまう」ということである。
そんな「人間による、薄っぺらい文章」などより、AIの方が、よっぽど中身のあるものが書けるし、しかも、利用者の知的レベルに合わせて、いくらでも専門的なもの、いくらでも幼稚単純なものも書けるのだから、無能な人間のつけ入る隙など無くなってしまうのである。
したがって、「AI論文ジェネレーター」が一般化すれば、今の「消費社会迎合のポピュリズム」による「薄っぺらい作品」の山は、早々に淘汰されることになるだろう。そういった大量消費の作品は、すべてAIが、流行や需要を適宜判断しつつ、次々と生成してくれるからだ。
で、「個性派」の私としては、AIに対して「だが、俺の真似はできまい」と、そう言いたいのである。
もちろん、「文体」を真似るくらいは容易だが、あちらからこちらへと八艘飛びをするような発想力(や、この臨機応変なダジャレ能力)は、とうていAIには真似できまい、と自負している。
私が生きている間に、そんな世界を見ることができるかどうかはわからないが、しかし「AIイラストジェネレーター(生成機)」のすごさを目の当たりにすると、それも、さほど先の話ではないようで、楽しみにすらしている。
「俺はそう簡単に、機械なんぞには淘汰されないからな」というのは、昔のアニメの主人公なんかが、よく口にした言葉だが、私は今、まさにそんな気分なのだ。
だが、この記事を読んでくれた貴方は、どうだろうか?
機械に淘汰されない「個性」を持っているという自信があるだろうか?
それとも、すでに淘汰されかかっているのだろうか?
(2023年2月15日)
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