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藤原聖子編 『世俗化以後の グローバル宗教事情』 ( 叢書 「いま宗教に向き合う」 3 ・ 世界編1) : 〈宗教〉を考える人の必読書

書評:藤原聖子編『世俗化以後のグローバル宗教事情』(叢書「いま宗教に向き合う」3・世界編1)(岩波書店)

とにかく面白かった。個々の宗教宗派ではなく、〈宗教〉というものをトータルに考えようとする人のための、必読書だと言えよう。

本叢書「いま宗教に向き合う」の先行2冊は「国内編」ということで、ある程度予備知識のある問題を扱っており、その点で興味深かったわけだが、叢書第3巻にあたる本書は「世界編」で、宗教関連書をかなり読んでいても、なかなかおさえることの出来ない、世界の多様な宗教事情が紹介されており、「宗教」という未完成のジクソーパズルの、これまで手をつけられなかった空白地帯を埋めるための鍵となるピースを、いくつも与えられたような知的刺激に満ちていた。

その意味では「伝統宗教の復興/変容」を扱った第1部よりも、第2部「新宗教運動・スピリチュアリティーの現在」や第3部「グローバル化とダイバーシティ」の方が、私には興味深かった。

例えば第2部第8章で扱われる「ゲルマン的ネオ・ベイガン」なんてものは、完全に初耳だったが、紹介されてみれば、たしかに今の時代ならそういうものが当然あるだろうと、新鮮かつ納得させられる論文だったし、同第9章は「児童文学」を中心にディズニーアニメなども扱っており、目から鱗が落ちる論文だった。

具体的に言うと、モンゴメリの『赤毛のアン』には、プロテスタント倫理への「魔女=キリスト教以前の、貶められた宗教性の象徴」の逆襲と解放の意味が込められていた、などというのは、小説読みでありアニメ好きである私の盲点を、見事に突いたものだったのだ。
というのも、私は自覚的に否応なく「男性原理」の人間で、「女性原理」的な作品は、小説であれアニメであれ「趣味に合わない」と避けてきたため、当然「少女小説」は読まなかったし、高畑勳監督のテレビアニメも『母をたずねて三千里』(少年)と『アルプスの少女ハイジ』(男女未分の幼児=自然)は好きだが『赤毛のアン』(少女)は敬遠しており、ディズニーアニメも、基本的には触手が動かず、あまり観ていなかったのだ。
しかし、本章を読むと、私が『赤毛のアン』やディズニーアニメを避けた理由は、私が「男性原理に男性原理で立ち向かう(つまり、権威に理屈で立ち向かう)タイプの男性原理人間」だったからだということが、とてもよくわかった。
(そう言えば、高畑勳監督の初期代表作『太陽の王子ホルス』は「スラヴ神話」を下敷きにした民衆蜂起の物語だったし、『赤毛のアン』が禁欲的なプロテスタント倫理を抵抗した物語なら、遺作である『かぐや姫の物語』も自由を求めた姫の物語だったと、その一貫性に気づくことも出来た)

また第9章「創造論、新無神論、フィクション宗教」では、私自身が「新無神論」に分類される立場だというのを初めて知った。また、科学的宗教批判としての「新無神論」や、宗教をおちょくる「なんちゃって宗教」としての「フィクション宗教」などが、一種の「宗教」として捉えられている「宗教学の現在」にも驚かされた。

たしかに「無神論」に、まったく宗教性が無いかと言えば、そんなこともない、という多少の自覚はあった。というのも、先日書いた、宗教学者・阿満利麿『日本人はなぜ無宗教なのか』のAmazonレビューで、私は「なぜ無神論者である阿満が、宗教の重要性を語ることになるのか?」という問いを立て、その答えとして「(私を含めた)無神論者が持っている、理想とか希望とかいった想いは、その対象の非在性において、宗教に近いものなのではないか。その意味では、何かを信じて支えにするというのは、人間の進化論的本質の一部なのではないか(したがって、信じるものがあるのは仕方ないが、それが宗教である必然性はない)。」という趣旨のことを書いたくらいだからだ。
だが、私のこの言い方も、「無神論」を「宗教の一種」と言っていることにされるのだとしたら、「それはやっぱり違う」と言いたいところである。

本書でも書かれているように、なにを「宗教」だと考えるかは、所詮「言葉の定義の問題」ということになるのかも知れないけれど、しかし、私としては自分の「理想主義的無神論」を「宗教」と一緒にされたくはないという思いは強い。
しかしまた、そこまで疑わなければならない複雑極まりない局面に、世界の宗教事情はたちいたっている、ということなのだろう。

ともあれ、どの収録論文も面白く、知的刺激に満ちた1冊だった。

初出:2019年4月15日「Amazonレビュー」
  (2021年10月15日、管理者により削除)

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