塚原重義監督 『クラユカバ』 『クラメルカガリ』 : 暗示と憑き物落とし
映画評:塚原重義監督『クラユカバ』『クラメルカガリ』(2023年・2024年)
塚原重義監督による『クラユカバ』と『クラメルカガリ』の2本は、どちらも「60分ほどの劇場用中編アニメーション作品」である。
『クラユカバ』は、塚原監督の完全オリジナル作品であり、『クラメルカガリ』の方は、作家・成田良悟による同作のスピンオフ小説を原案に、塚原がアニメ化した作品という位置づけになる。
塚原重義監督は、いわゆる「Web系アニメーター」で、『クラユカバ』までは「商業アニメーション制作」に関わったことはなく、学生時代からオリジナルアニメーションを制作してきた、「アニメーター」というよりは「アニメ作家」と呼ぶべき人だろう。
『2001年(平成13年)8月にWebサイト「弥栄堂」を開設。2003年(平成15年)よりフラッシュアニメーションを制作』(wiki)、2チャンネルでフラッシュアニメを公開し始めて、そこで評判を取り、
というのが、劇場用中編『クラユカバ』の、日本での公開までの大まかな経緯だ。
さて、『クラユカバ』『クラメルカガリ』の2本についての、私の評価を先に書いておくと、「よく出来ているが、作品として小さくまとまった佳品」というものだ。
こう書くと「いや、むしろ壮大な物語世界の一部を描いた作品と評するべきだろう」と反論したくなる人もあるだろう。たしかにそれはそのとおりなのだが、にも関わらず、実際には、その「壮大感」を出せていないところが、この作品の「物足りない」部分なのだ。
上の「Wikipedia」から引用にもあるとおり、『クラユカバ』は、クラウドファンディングで「パイロット版」が作成され、そこからさらに「序章」版が作られて公開され、これが今回の、言うなれば「完全版」へと発展したわけなのだが、この「完全版」が、そもそも「壮大な世界設定」の「一部」でくり広げられる「小さな物語」であり、陳腐な言い方で言えば「クラユカバ・サーガ」の「序章」に過ぎない。
その証拠に、次作『クラメルカガリ』は、『クラユカバ』と世界観を同じくする「スピンオフ作品」であり、言うなれば、この作品もまた「クラユカバ・サーガ」の「一部」という位置づけなのだ。
したがって、『クラユカバ』は、「パイロット」版が発展して、「序章」版が作られ、それがさらに発展した本作「完全版」でさえ、やはり「壮大な物語世界の一部」を描いたに過ぎない、いわば「序章」に止まっていて、語の本来の意味での「完全版」にはなっていない。要は、作品として「完結していない」のだ。
長々と引っぱったあげく、そのラストは、「謎」の「完全解明(解決)」にはなっていない。
たしかに、一連の「誘拐事件」の犯人は特定され、被害者は救出されるのだが、その犯行を行なった犯人なり犯行組織が、捕まるなり壊滅させられるまでには至らないし、その犯行組織と主人公の探偵「荘太郎」との、親の代からの因縁も、「何かあった」ということまでは「思わせぶりに明かされる」のだが、具体的に描かれるまでには至らない。
なにしろ、公式には「長編」と銘打って、長編料金で公開された作品ではあれ、実際には「60分ほど」の「中編」なのだから、「壮大な世界設定」そのままの「壮大な物語」を描くことなど、もとより出来ない相談で、だから、全体の入り口となる「ごく一部」を切り取るというやり方自体は、決して間違いではないとも言えるだろう。
しかしだ、この『クラユカバ』は、「小さな物語を、きっちり描ききった作品」にはなっておらず、その大半は「この物語は、壮大な物語の序章(入り口)に過ぎないのですよ」と語ることに費やされた、言うなれば「壮大な予告編」でしかない。
無論、それを「序章」と呼んでもいいのだが、いずれにしろ「物語作品」としては「完全」でもなければ「完成」してもいないのである。
言い換えれば、「序章としては、なかなかよく出来ている」とか「予告編としては、よく出来ている」という感じの、「思わせぶりなだけの作品」なのだ。
したがって、この「予告編としての序章」の背後に(入り口の奥に)「壮大な物語」(奥深い世界)を見る(幻視する)ことで、本作を「過大評価」する人も少なくはなかろうが、それは「予告編」と「本編」の違いを錯覚させられている人の、誤った評価だと言えるだろう。
「予告編ではあれほど面白そうだったのに、実際に本編を見てみると、それほどのものではなかったのでガッカリした」なんてことは、よくある話なのだから、本編『クラユカバ』という作品の「基本性格」を正しく見抜いた者には、本作は「よく出来た予告編」の域を出ない「こじんまりとした作品」でしかあり得ない。最初から「壮大な物語」など語る気のない、あくまでも、思わせぶりに観客の気を惹くための、「予告編(思わせぶり)」に過ぎないのである。
その証拠に、次作『クラメルカガリ』も、「スピンオフ作品」でしかないし、この先、この「シリーズ」作品が作られたとしても、このような「断片世界」を描いたものばかりで、「壮大な世界設定そのものと対峙するような、壮大な作品」が作られることはないと、そう断じて良いだろう。
観客としての「群盲」は、永遠に「象」の一部を撫でさすって、妄想を膨らまさせてもらえるだけで、実態(全体像をそのまま)に見せられることはないのである。
言うなれば、壮大な迷路の中央に高く聳える、謎めいた「黒い塔」を遠望しながら、観客たちは、いつまでも、その裾野の「迷路」をぐるぐると歩かされるばかりで、いっかな、その世界の中心たるべき「塔」に到達することもなければ、その「迷宮世界」の謎を解いて「決着をつける」こともできない。
観客たちは、「いつかあの塔にたどり着け、そこでは、思いもかけない真相が明らかにされるのだろう」という「期待」を抱かされたまま、いつまでも「塔の裾野の迷路」をぐるぐると歩き回らされたあげく、そのうち「この迷路自体が楽しいのだから、それでいいじゃないか」というふうに「勘違い(自己洗脳)」させられてしまうのである。
そうした「本作の本質」を象徴する言葉が、荘太郎が失踪した父の残した言葉として思い出す『クラガリに曳かれるな』という、警告の言葉である。
「クラガリ」とは、この作品世界のキモをなす「底なしの地下世界」のことだ。
そこではあらゆる「正体不明の悪」が蠢いていて、その「クラガリの謎」を解き明かそうとした者は、逆にクラガリに引き込まれて、身を滅ぼしてしまう。ちょうど、先代の「探偵」であった「荘太郎の父」が、妻子を残して失踪してしまったように。
だが、ここまでの記述でもおわかりだろうが、私は、この謎めいた世界の「全貌」が、塚原監督によって明示的に描かれることは、永遠にない、とそう見ている。
「思わせぶり」は、どこまでも「思わせぶり」だから「面白そう」なのであって、ネタを割ってしまったら、その途端にその「夢は覚めてしまう」ものだからだ。
その意味で、「クラガリに曳かれるな」という言葉は、「両義的」なのだ。
この言葉は、「その危険な暗がりの奥にこそ、すべての真相が隠されているのだ」ということを、「物語内」的には「暗示」しているのだが、実際には、つまり「物語外」的には「暗がりの中には何もない。だから、暗がりに惹かれても、馬鹿を見るだけだよ」という、人を食った、真逆な警告のメッセージが込められてもいる。
「クラガリの奥は空っぽ」であり、「この迷路は、あの塔へとは続いていない」。
「クラガリの奥に、真相がある」とか「この迷路は、終着点であるあの黒い塔に続いている」などと期待した人は、カフカの『城』の主人公である「K」と同様、いつまでたっても、そこへはたどり着けず、その手前でウロウロさせられることになる。
また、仮に、荘太郎なり「K」なりが、「目的地」に辿り着いたとすれば、それはきっと「失望させられる現実」でしかないだろう。
また、それを知っているからこそ、塚原監督は「クラガリに曳かれるな」というメッセージをくり返し発しつつ、決して「クラガリ」の奥に光を当てて、そのすべてを描くようなことはしないはずなのだ。それをしてしまえば、「幽霊の正体見たり枯れ尾花」同様の、「失望」を招くことにしかならないことを、重々承知しているからである。
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そんなわけで、実際の『クラユカバ』と『クラメルカガリ』が、どのような作品なのかというと、それは「ビジュアル的には優れた佳作」だとまでは言えるだろう。
そして、その特徴的な作風は、「レトロフューチャー」や「スチームパンク」を基盤としたものだというのも、「Wikipedia」の紹介を待つまでもなく、一見して明らかである。
「スチームパンク」というジャンルをある程度ご存じの方ならお分かりだろうが、このジャンルは「世界観のオリジナル性」よりも「ビジュアルイメージ」優先の「オシャレな未来世界」を描いたもの(像)である。
「蒸気機関がすべての動力となり、それによって稼働するコンピュータや人工知能などによって運営された未来世界」とでも言えようか。
つまり、「古いものと新しいものの奇形的一体化によって生まれた、懐かしいが新しい世界」を描いているのである。
だから、「スチームパンク」というのは、その自覚の有無に関わりなく「レトロフューチャー」の一種なのだ。
「スチームパンク」や「レトロフューチャー」は、SF作品が従来描いてきた「無機質な未来」の「非情性」を排した、どこか「懐かしい」世界を描いているのである。
したがって、塚原監督のオリジナル作品である『クラユカバ』の主人公である荘太郎の職業が、「探偵」だというのも、そうした文脈から生まれてきたものであり、要は「レトロ・オシャレ」なイメージの産物なのである。
ただ、ここで、「ミステリファン」である私が、是非とも指摘しておかなければならないのは、スピンアウト作品である『クラメルカガリ』には無くて、塚原監督の完全オリジナル作品である『クラユカバ』にはある「探偵趣味」とは、明らかに「京極夏彦」の影響下にあるものであり、さらに限定すれば、京極夏彦のデビュー作である『姑獲鳥の夏』の影響を色濃く受けた作品だ、という点である。
ネタバラシになるので、詳しくは書かないが、探偵小説である『姑獲鳥の夏』という作品のキモは、「自己暗示」によって「記憶が隠蔽」され「目の前にあるものまで見えなくなってしまう」という状況にある。
要は、その人物は「そのおぞましい現実を見たくない」のである。
だからこそ、記憶を改変して「見たものを見なかったことにし、目の前にあるものを見えていないことにする」のだ。その現実が、自分にとって、あまりにも受け入れがたいものであるからこそ、心理学的な「防衛規制」によって、その「暗い現実」に直面することから、自身の心を守るのだ。曰く、一一心の暗がりに惹かれるな。
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しかしながら、こうした本来ならば「重くて暗い」題材を扱いながら、『クラユカバ』の場合、所詮はこれも「オシャレな道具立てのひとつ」にしかなっていない。
『姑獲鳥の夏』のような、最終的な「過酷な現実の突きつけ」にいたる「不穏さ」は、ほとんど無いに等しい。あっても「オシャレ(な香水)として匂わせる」程度のものなのである。
『姑獲鳥の夏』は「心の暗がりの謎を暴く」作品だったけれど、『クラユカバ』は「知の暗がりに迷って、疑心暗鬼を見る楽しみを与える」作品にすぎない。だから「ぬるい」。
言い換えれば、塚原監督は、観客たちに対して「暗示」をかけているのである。
「クラガリの奥には、とんでもない真相が潜んでいますよ。だから、覚悟のない者は、決してクラガリに踏み込んではいけない。クラガリに曳かれ(惹かれ・引かれ)てはならない」。
一一「クラガリに曳かれるな」とは、そういう意味であり、真相を明かす(暴く)という「その気があるのか無いのかよくわからない」思わせぶりであり、言うなれば(落ちる気があるのかないのかわからない、思わせぶりな)「悪女の手管」のたぐいなのである(例えば、『ルパン三世』の峰不二子の、それみたいなもの)。
そんなわけで、この『クラユカバ』の世界というのは、いかにも「日本的」な「空虚な中心(中空)をめぐる、壮大な世界設定」の世界であり、「天皇家の先祖をたどっていけば、フィクションとしての神話の世界に行き着いてしまう」というような「底の抜けた(根拠不在の)世界」なのである。
だからこそ、「クラガリ」は、その「全体像」が描かれることはないし、描くつもりもない。「クラガリ」の奥には、「恐るべき真相」があるのではなく、「底の抜けた空虚」があるだけだからだ。
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しかし、こうした「実のなさ」は、塚原監督の「趣味」にも、あらかじめ明らかだ。
「スチームパンク」や「レトロフューチャー」が、しばしば「オシャレな表面(奥行きを持たない看板)」でしかなかったというだけではなく、塚原監督自身、自分の好きな「作風」を次のように語っているのである。
つまり、塚原監督は、基本的には「痛快な娯楽作品」が好きなのであって、「テーマ性の強い重厚な作品」を好む人ではない。言い換えれば、「クラガリの奥に潜む、暗い真相」みたいなものを描きたい人ではないのだ。
では、どうして京極夏彦の『姑獲鳥の夏』を参照したのかといえば、それが「オシャレ」だと思ったからであって、その内容的な「重厚さ」にまで惹かれたわけではなかったのである。
『姑獲鳥の夏』に始まる「京極堂シリーズ(妖怪シリーズ・百鬼夜行シリーズ)」の主人公・中禅寺秋彦は、古本屋「京極堂」の主で神主でもある、作品内の位置づけとしては「名探偵」である。
そして、その彼の決め台詞は、
つまり、このシリーズが「妖怪シリーズ」と呼ばれるのは、その個々の作品で描かれる「事件」が、まるで「妖怪」に憑かれた者による犯行のように見えるからだ。
言い換えれば、その犯人の「心の歪み」を説明するのに「妖怪の比喩」を用いるのが有効であり、その捉えがたい「心の歪み」に「名前」を与えることで、その「心の歪み」を「名前」という依代ごと払い落とすのだ。
つまり、ここでの「妖怪」とは、あくまでも「比喩」であって、「妖怪が実在する」という話ではないのである。
当然、中禅寺秋彦の言う『この世に、不思議なものなの何もないのだよ』とは、「この世に、妖怪などというものは存在しない。そればかりではなく、宗教も含めて、それらはすべて、理性の言葉で説明できるものでしかないんだよ」ということなのだ。
したがって、名探偵である中禅寺秋彦が、物語の最後で行う「謎解き」が、「憑き物落とし」と呼ばれるのも、人間の陥りやすい「錯誤」とそれへの「妄執」を、解体し、祓い落とす作業だからである。
つまり、本作『クラユカバ』が観客に行ったのは、京極夏彦が「京極堂シリーズ」で行った「憑き物落とし=暗示はずし=洗脳はずし」とは真逆の、「暗示=催眠」そのものなのである。
「クラガリに曳かれるな」という言葉によって、逆に、クラガリの奥に「何か途方もないものが隠されている」という暗示をかけることで、「幻覚」を見せるためになされた、それは「心理誘導」なのだ。
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だから、本作『クラユカバ』や、そこで「予告」された「クラユカバ・サーガ的な壮大な世界」が「暗闇の奥に存在する」と思った人は、その暗示にかかって、まんまと「疑心暗鬼」を見せられた、ということでしかない。
言い換えれば、『クラユカバ』の奥に「特別なもの」など、なにも潜んではいない。
そこに「妖怪」の存在を見てしまうのは、「君が、猿アタマだからだよ」ということにしかならないのだ。
猿くん、そろそろ目を覚ましたまえ。
(2024年5月24日)
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