ジョナサン・グレイザー監督 『関心領域』 : 本作のレビュアーたちも、きっと同じことをする。
映画評:ジョナサン・グレイザー監督『関心領域』(2023年、イギリス・ポーランド・アメリカ合作映画)
この映画で語られていることは、そんなに難しいことではない。これは「私たち自身の寓話」なのだ。
ここに描かれていることを「なんと恐ろしい」などと思う人は、自分自身の「恐ろしさ」に気づいていないだけである。
そうした人の「恐ろしさ」とは、「あんなやつ(ら)、死んでしまえば清々するのに」と本気で考え、実際そうなって、それで「ザマアミロ」と溜飲をさげてさえ、しかし、公式な発言では「どんなに意見対立があり、不愉快な存在だと思われたとしても、それを暴力で排除したいなどと考えることは許されません。それは恐ろしいことです」などと、「そんなこと考えたこともない」という顔をして平然と語れる、そんな「偽善的な図太さ」や「臆面もない二重人格ぶり」であり、それこそが、真に「恐ろしい」ものなのである。
ホロコーストを実行したナチスの軍人たちだって、それを支持したドイツ国民だって、自分たちがそうした「歴史的役回り」を担っていなければ、つまり、他国民のやったことだったなら、せいぜい眉を顰めて「信じられない。なんて恐ろしいことを」などという感想を漏らして、せいぜい自分の「人間としての真っ当さ」をアピールしたことであろう。
だが、こうした自身の「図太さ」に気づき得ない「頭の悪さ」こそが、決定的に致命的なのだ。
そういう人は、「自分はまともな人間だから、そんなことするわけない」と、そう本気で思い込んでいるのだが、無論そんなことはない。
私たちとナチスの軍人たちとは「何ひとつ変わらない」のである。ただ、その立場に「置かれてしまった」か否かだけの違いなのだ。
だからこそ、私たちはせめて、「彼らとは何も違わない」という認めがたい事実を認め、「私たち自身、状況が強いるのなら、それに易々と従い、その現実をイデオロギーで糊塗してしまうだろう」くらいのことは、日頃から、考えておかなくてはならない。
そうでないと「タワマン」に住みながら、その足下には、多くの犠牲者の死体が埋まっていることにさえ気づかないような、鈍感な「社会的勝者」にだって、チャンスさえ与えられれば、喜んで、なりおおせてしまえるだろう。
「彼らと私たちは、同じ人間だ」というのは、「ナチスの軍人」たちを「免責する」ことではない。そのためであってはならない。
「彼らは、職務に忠実だっただけの、普通の人間だった」と、そう評し、つまり「私たちと同じだから、彼らは邪悪な存在ではない」と考えるのは、明らかな間違いで、この間違いは「私たち普通の人間は、邪悪ではない」という「間違った前提」に立った「誤認」なのだ。
間違いなく、私たちは「邪悪」な存在なのである。だからこそ、ナチスの軍人たちも「邪悪」であり得たのだし、むしろ彼らは、私たちが日頃は隠している「秘めたる邪悪さ」を、わかりやすく開示してくれた「象徴的存在」だと考えるべきなのだ。
私たちが、普通に「善良な人間」であるなどという耳障り良い「フィクション」に身を委ねてしまうならば、私たち自身の中に飼われている「邪悪さ」を閉じ込めた「檻の錠」が、確実にゆるむ。
(ちなみに、同日鑑賞した『デッドデッドデーモンズデデデデデストラクション』後章の中では、異星人をして「人類は強くて、凶暴だよ。だから、宇宙にも広がっていくだろうね」と語らせていた。またそれに対し、地球人の主人公は「そんなこと言われても、ぜんぜん嬉しくないよ」と応じてもいた)
昨日、この映画を観に行った際、広い映画館にけっこう人が入っていることに驚いた。こんな内容の映画に、日本人の多くが関心を示すとは思っていなかったからだ。
事実、私が以前レビューを書いた、『ヒトラーのための虐殺会議』(マッティ・ゲショネック監督・2023年)は『すべてのドイツ占領下および同盟国から東ヨーロッパの絶滅収容所へのユダヤ人強制送還の始まりとなった「ヴァンゼー会議」』を描いた映画なのだが、これには、それほど客が入っていなかったからである。
で、このレビューを書くために、この映画の基本情報を知ろうと検索していたところ、本作が「カンヌ映画祭グランプリ」や「アカデミー賞・国際映画賞」の受賞作であることを知って、「これか」を初めて気づいた。要は「ヒトラー総統、万歳!」「天皇陛下、万歳!」と大差のない「大衆的な権威主義」の結果だったのである(と、私は確信する)。
本作『関心領域』で語られていることは「そんなに難しいことではない。」と私が断じるのは、上の『ヒトラーのための虐殺会議』で描いていたことも、本作と「似たようなこと」だったからだ。
つまり、彼らは、「ユダヤ人問題の最終解決」問題についての会議に、「能吏」として参加していた「だけ」であり、その意味では「ごく普通の人」としてふるまっていた。そこで議論されるテーマが「効率的な虐殺」という「異常なもの」だった「だけ」で、それ以外は、日常的な「会議風景」と、なんら変わらないものだったのだ。だから私は、そのレビューのタイトルを「ここに同席できるくらい、 出世したいよね?」としておいたのである。
本作『関心領域』で描かれたのも、そうした「日常風景」である。
『ヒトラーのための虐殺会議』が描いたのが「会社でのお父さん」たちの姿だとすれば、本作『関心領域』が描いたのは「家庭でのパパとママ」であるという違い「だけ」。
『ヒトラーのための虐殺会議』の描いた「ヴァンゼー会議」の異常性が、もっぱら、その「議題の内容」だった「だけ」なのに対して、本作『関心領域』の描いた、平凡な「家庭の日常風景」の異常性とは、もっぱら、その家が「絶滅収容所の隣に建っている」ということ「だけ」なのである。
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この、アウシュヴィッツ強制収容所の隣の家が、絶滅収容所に併設された「収容所幹部の官舎」であることは、作中でもすぐに明かされることなのだから、それに断りなく言及することは、「ネタバラシ」でも何でもない。
そして、「第二次世界大戦」の歴史にすこし詳しい者なら、併設された「官舎」の主人が、ドイツ軍服を着た部下から「指揮官の下で仕事できることを光栄に思います」などと言われているのを聞けば、その「官舎」が「所長官舎」なのだとはっきりするし、その段階で、この強制収容所が、かの有名な「アウシュヴィッツ」なのではないかと疑い、しばらく名字の隠されていたこの所長官舎の主の名前が、「ルドルフ・フェルディナント・ヘス」なのではないかと、そう明かされる前に、うすうす勘づいたことであろう(※ ナチ党の副総裁であった「ルドルフ・ヴァルター・リヒャルト・ヘス」とは別人)。
本作のあれこれの情報の開示が「ネタバレ」になるというのは、端的にいって、鑑賞者の「歴史に対する無知」が前提なのである。
と言うのも、西欧人ならばその多くは「制服姿になった官舎の主人が、隣の収容所に出勤していく様子」を見せられた段階で「あっ、これはアウシュヴィッツのヘスではないか?」と気づいて「当然」の話でしかないからである。
日本人が、この程度のことにも気づけないのは、端的に言って「ホロコースト」を「他人事」の「物語(悲劇)」として「消費」しているだけだからだ。
「ヒトラー」や「ゲッペルス」や「ヒムラー」や「アイヒマン」、あるいは「ゲーリング」や「ロンメル」の名前くらいまでは知っていても、「ヘス」の名前までは知らない。「アウシュヴィッツ」という名称を知ってさえいれば、ヘスの名前までは知らなくても、何も困らないからである。
つまり、歴史の表舞台に派手の登場する「メインキャラ」くらいは知っているが、少し地味な「脇役」に近い人物になると、もうその存在は、私たちの「関心領域」から外れてしまい、だからこそそこが「隠す」ことのできる「ネタ」にもなってしまう。私たちは、そうした「歴史消費」に馴れきってしまっている。
私がこの映画で、特に印象的だったのは、作品冒頭の映画タイトルが映し出される部分だ。
真っ黒な画面の中に、タイトル『THE ZONE OF INTEREST』の文字が、白色の角ゴシック体で映し出され、その背後には、微かに地鳴りのような音が響いている。
この文字は、けっこう長い時間をかけて、背景の黒の中に沈んでいくのだが、私たちの目には『The Zone of Interest』の白色ゴシック文字が「残像」として、しばらくの間、黒バックの中に浮かんで見えている。そして、より細かく言うなら、その残像が消えても、文字の周囲の黒は、背景の黒よりも、さらに黒く見えた状態がしばらく続く。これはタイトルの周囲が、文字の白と背景の黒との明度のギャップのせいで、より黒く見えていたことの「残像」の一種なのであろう。だが、そうして、まずタイトルロゴの残像が見えなくなり、次にその周囲のより暗く見える残像も、目の「馴れ」によって、やがて見えなくなってしまう。つまり、画面全体が「平均な黒」に見えるようになるのである(平準化)。
これは、監督が意識してやったことか否かは微妙なところだが、私はこれを「本作」のテーマを象徴するものだと思った。つまり「馴れと忘却」ということである。
私たちは、どんなことにだって馴れてしまう。虐殺行為にだって馴れてしまうのだ。
関東大震災の際に「朝鮮人の虐殺」を行なった日本人が、ドイツ人よりも「優しい」とか「平和な民族」だなどということは、あり得ない。
また、現に生物兵器や毒ガス兵器を作り、それを使用し、さらに原爆の開発にも着手していた日本人が、原爆を落としたアメリカ人よりも、「優しい」とか「平和な民族」だなどということも、あり得ない。
だが、私たちは、そうした事実を、テレビや映画で見せられるたびに「この歴史を決して忘れてはならない」などと言いながら、結局は「馴れと忘却」の自然法則に従ってしまう。
しかしこれは、こうしたことを「他人事」だと考えているかぎりは、当然の結果なのだ。
私たちは「他人の苦しみ」を感じることはできても、それを保ち続けることはできないからであり、そうだからこそ「生きられる」という側面もあるのである。「忘却こそが、救いだ」という生理機構だ。
だから、私たちが本気で「この歴史を忘れてはならない」と思うのだったら、それは「私が立派な人間だから、そう考えるのだ」などという、いい気な「人間観」に止まるのではなく、これは「私自身の、本性の問題なのだ」と、そう気づかなければならないはずだ。そして、そうなれば、それは「自己免責」できない問題となる。
私たちは、「妻の尻に敷かれた小市民的な夫であり、かつ職場にあっては能吏」であった「ヘス」であるばかりでなく、「自分一個の家庭的幸福のためなら、他人の不幸に目をつむれる、どころか、それで良いと正当化する」ことさえできる「ヘスの妻」と、まったく同じ「邪悪さ」を秘めているという、「自覚」を持つ必要がある。
一一「プーチンなんか死ねばいいのに」「習近平なんて死ねばいいのに」「金正恩なんか死ねばいいのに」と、そう思ったことのない人など、他人や社会にまったく「関心」のない人以外には、いないのではないだろうか。
そんな人はきっと、自分自身にも大した「関心」を持たないから、「関心領域」の外側にいる「自身の邪悪さ」に気づくこともないのであろう。
そしてその意味では、本作の主人公とは、自分の家庭(という狭い空間)の幸せのことしか考えていない「普通のおばさん」である、ヘートヴィヒ・ヘスであったというのも明らかだ。
彼女を演じた、ザンドラ・ヒュラーの「不愉快に甲高い、しかし幸せそうな笑い声」は、じつに見事なものであった。
そして、その妻の「図太さ」に比べれば、夫のヘス(ルドルフ)は、地獄への暗い階段を、そうとも気づかずに降り続けていくほど、無自覚で凡庸な人物(小物)だったとも言えるのである。
(2024年5月31日)
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