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岡野玲子 『ファンシイダンス』 : どちらが 〈異世界〉か?

書評:岡野玲子『ファンシイダンス』(小学館)

本作(全9巻)は、1984年から1990年に『プチフラワー』誌に連載され、1989年の第34回小学館漫画賞を受賞し、同年に大映で映画化(監督:周防正行、主演:本木雅弘、鈴木保奈美)もされた作品である。(Wikipedia「ファンシイダンス」

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(映画『ファンシイダンス』、左から 大槻ケンヂ、本木雅弘、鈴木保奈美)

1989年と言えば、「昭和」が終わって「平成」が始まった年。6月には中国・北京で「天安門事件」が起き、11月には「ベルリンの壁が崩壊」し、東西冷戦が終結した「歴史的な年」であり、日本では「バブル経済」が終焉を迎えようとしていた、そんな時期である。

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そんな時期を、本作主人公たちの同世代人として生きながら、オシャレだのトレンドだのに何の興味もなく、ずっと野暮でダサい「文系趣味人」として生きてきた私が、この「令和」の御代になって、いまさら30年以上も前のマンガを読もうと思ったのは、無論、普通にマンガとして楽しもうと考えたからではない。

本作が当時、マンガ・映画ともに、とても評判が良かったというのは、同時代人として仄聞していたのだけれど、前記のとおり、オシャレやトレンドといったものにはそもそも縁がなかったし、当時は「宗教」にも興味がなかった私は、本作に一瞥もくれることはなかった。
だから、そんな私が今回本作を手に取ったのも、「仏教研究」であり「宗教研究」のためであった。それも、「唯物論者」「無神論者」として、「宗教」を批判的に考えるための参考資料として、「禅寺での修行僧の実態」を、ある程度リアルに描いていると評判の本作に、活字からは得られない情報を期待して、参考資料として読んでみたのである。

で、結論的に言うならば、やはり本作は、私とは大きく「異なる世界観」に生きている人たちの物語であったと言えるだろう。
ひらたく言えば、「人種」が違いすぎて、全然ピンと来ず、「異文化」を遠目に観測するといった感じで、共感とか感動といったものは、ほぼ無かった。けれどもまた、「縁もゆかりもない異文化」として、ある程度は興味深く読んだ、とも言えるのかもしれない。

ただし、私が「異文化」を感じたのは「禅寺の宗教生活」の方ではなく、やはり「オシャレでトレンディーな、バブル期の若者の生活」の方だった。「ああ、こんな感じだったのかも知れないなあ。ほとんど縁が無かったけど」という感想だったわけである。
しかし、こうした感想は、当時を知らない今の若者だって、おおよそ似たようなものなのではないか。日本がこんな「あ・軽い」社会であったなんて、想像もできない、という若者も少なくないはずで、今の日本人の実感からすれば、もはや当時の「あ・軽い」社会は、「異文化」と呼んで良いほど、疎遠なものになっているように思う。

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こうした個人的趣味や時代感覚のズレは別にして、本作を「宗教」の側面から見てみると、主人公で禅宗寺院の後継息子である塩野陽平は、ある意味では「バブル経済期」の「空気」をストレートに内面化した青年なのではないか、という感じを受けた。

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しかし陽平は、単なる「あ・軽い」青年ではない。
見かけや態度は、そのようなものであっても、どこかで「空虚さを感じ、何かを求めて、さまよっている」ところがあり、「生」の足場を求めている雰囲気があるのだ。
彼は、寺の跡継ぎ息子として、しかたなく恋人を残して修行のために入山し、山での修行生活に一定の抵抗をして見せもするのだが、それでも山での生活に「喜び」を感じている部分が否定できない。待たせている恋人の元へ戻るために早く下山したいと思いながらも、状況に流されてズルズルと山の生活を続ける陽平には、自由な俗界ではなく、何かと縛りの多い山の生活の中でこそ、自分を見つめることのできる満足を得ることができたようなのだ。

だが、宗教に批判的なリアリストとしての私の感覚から言えば、陽平の「宗教」に対する態度は、やはり「バブル(泡)」めいていて、抽象的に過ぎると感じられる。
そもそも、どうして「山での修行」に、何か「世俗」では得られない意味がある、などと素直に感じてしまうのだろうか。結局のところ、「宗教」というものも、「流行」と同様に、意味を見出そうとするから、そこに意味を見出せてしまう程度のものでしかないのかもしれないと、どうして疑うことをしないのであろう。彼は状況に対して、あまりに「素直」なのだ。

本書の中で何度となく繰り返される「あ・軽い」という言葉は、単に「明るい」だけではなく、「軽い」ということの意味を、基本的に肯定するものであり、それはタイトルである「ファンシイダンス(高級な・派手な・装飾的な・オシャレな、踊り)」にも示されているとおりである。

たしかに「重厚深遠」であれば良いとは思わないし、いちがいに「軽薄短小」が悪いとも思わない。だが、結局両者は「相補的」なものであって、どちらか一方だけでは不十分なのだろうし、だからこそ、陽平は「山での修行生活」を経て、最後は恋人の元へ、世俗の当たり前な幸福へと帰還したのではないか。
しかしまた私に言わせれば、陽平の場合、「重厚深遠」を体験したとは、とうてい思えない。と言うのも、陽平の「思考」はあくまでも抽象的・求心的であり、哲学的ではあっても、社会的・遠心的ではないからである。つまりそこには、決定的に「リアルな社会の、度しがたい重み」が無い。

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これを「時代」の限界と言ってしまえば、それまでなのだが、だとすると、陽平が「山の修行」で得たものもまた「泡」のようなものであり、そこには仏教で言う「空(くう)」のような厳しさに欠けていたように思う。

そして、そうした「突き詰め」の無さが本作の弱点であり、それを「明るい」とか「軽い」と形容するのは、あまりにも手前味噌であって、安易ではないかと、私にはそう思えるのである。

ちょっと思わせぶりに言うならば「この世界は、明るくもなければ暗くもない。軽くもなければ重くもない」のではないか。そして本作は、そうした境位にはかすりもしないまま、自己満足してしまった作品なのではないだろうか。
また、著者の岡野が、この作品の後、「禅」ではなく、「真言密教」や「陰陽道」といった、「見た目に派手な仏教宗派」に傾いていくのも、そうした変わらぬ本質的指向(嗜好)のためなのではないだろうか。

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(漫画:岡野玲子、原作:夢枕獏 『陰陽師』)

私は、本作に、「オウム真理教事件」問題で厳しく指弾された、宗教学者・中沢新一と同様の、時代に浮かされた「泡」としての「あ・軽さ」を感じずにはいられなかったのである。

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 【補記】(2021年4月18日)

本作を読もうと思ったきっかけは、中沢新一・夢枕獏・宮崎信也の対談・鼎談集『ブッダの方舟』を読み、そこで真言宗僧侶である宮崎が、本書を「リアルな僧侶がよく描けている」を褒めていたからである。

『ファンシイダンス』に対する、私の否定的な評価の背景にあるものを知っていただくために、下に『ブッダの方舟』の拙レビューを再録しておきたい。
映画版『ファンィダンス』の音楽には中沢新一が関係しており、『ファンシイダンス』の後に岡野は、夢枕獏の小説を原作とした『陰陽師』を描いている。

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初出:2021年4月18日「Amazonレビュー」
  (2021年10月15日、管理者により削除)
再録:2021年4月26日「アレクセイの花園」
  (2022年8月1日、閉鎖により閲覧不能)

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