本多猪四郎監督 『妖星ゴラス』 : 忘れ去られた「レトロ・フューチャー」
私が生まれた年の映画である。特技監督は円谷英二。「特技監督」とは、「特撮」パートを担当した、今でいう「特撮監督」のことだ。
考えてみると、私は本多猪四郎監督のSF作品を、ほとんど見ていない。
もちろん『ゴジラ』(1954年)以下の、本多による「ゴジラ」シリーズの初期作品や、その周辺の「怪獣映画」はだいたい見ているのだが、それ以外の『地球防衛軍』(1957年)、『美女と液体人間』(1958年)、『宇宙大戦争』(1959年)、『ガス人間第一号』(1960年)、『マタンゴ』(1963年)、『海底軍艦』(前同)、『宇宙大怪獣ドゴラ』(1964年)、『フランケンシュタイン対地底怪獣』(1965年)、『フランケンシュタインの怪獣 サンダ対ガイラ』(1966年)といった映画を、その存在を知ってはいながら、軒並み見逃してきたのだ。
それはどうしてかというと、たぶん、子供の頃に「ゴジラシリーズ」を映画館に見に行った時は、親に連れて行ってもらっていたからであり、他にアニメ目当ての「東映まんがまつり」も見に行っていたから、年にそう何本もというわけにはいかなかったためであろう。
そんなわけで、「怪獣映画」の方は、「ゴジラシリーズ」を中心に「巨大怪獣」ものを優先し、一方、等身大の「怪人・怪物」が登場するような作品は、小さいぶん物足りなく感じて、さほど興味がなかったのではないかと思う。また後者は、後年のテレビドラマ『怪奇大作戦』(1968年〜69年)などで事足りていて、映画で見る必要もなかったのではないか。
数年遅れでの映画のテレビ放映も、「怪獣ブーム」で人気のあった「ゴジラシリーズ」が中心で、私もそっちを見ていたということではなかったかと思う。
マタンゴなどは、あのグロなデザインが素敵で、5年ほど前に(いま風にリアルな)フィギュアを買って所蔵しているというのに、今のところはまだ、映画本編は見ていないのだ。まあ、そのうちに見ることになるだろうが、そのきっかけとなる(予定な)のが、本作『妖星ゴラス』なのである。
では、どうして今頃になって、タイトルぐらいしか知らなかった本作『妖星ゴラス』を見ることにしたのかといえば、これもつい最近のことなのに、そのきっかけをすっかり忘れてしまっている。だが、たしか何かのレビューを書いていて「Wikipedia」を参照していた際に、なぜか、『妖星ゴラス』のWikipediaを覗いて、そこに次のような紹介文を見つけたからである。
どの部分に引っかかったのかというと、次のような点だ。
(1)について言うと、最近は、ジャン=リュック・ゴダールの、ヌーヴェルヴァーグらしく半月ほどで撮ってしまう「低予算早撮り作品」を見たりしているので、『撮影日数300日』というだけでもう「おおっ」と驚いてしまうし、ましてや『特撮パートが全体の3分の1を占める超大作』などと言われると、「昔の怪獣映画は、特撮パートが少なくて、早く怪獣が登場しないかとジリジリしたもんだな」などと思い、「この作品は、怪獣以外の円谷特撮を見せてくれるのか。それなら見ないわけにはいかないぞ」と、(まるで庵野秀明のように)そう思ったのである。
(2)については、当時の日本の「ハードSF」なるものが、どの程度のものだったのかと興味を持ったので、「お手並みを拝見しようか」と思ったわけだ。
(3)については、昨年亡くなった「ハードSF」作家である山本弘は、かなり好きだったからだ。
だが、『妖星ゴラス』へのオマージュ作品である『地球移動作戦』を読んでいないのは、ネタ的に興味がなかったからでもある。私の場合は、「ハードSF」に興味は持っても、それでもやはり、興味の中心は「人間」であって「科学技術」ではないから、あまりにも「唯物的」なテーマには興味が持てないのである。
そんなわけで、それはそれなりの興味を持って本作を見てみたわけだが、結論としては、
といったところか。
(A)の「映画としては、まあまあ。」というのは、本作は非常に大真面目な「ハードSF」なのだが、真面目な科学者たちが、国境を超えて協力し合い、無事「ゴラスの地球への衝突」という危機を回避するという、「科学万歳」「人類万歳」のいささか「優等生」的にすぎる内容で、人間の描き方に深みがないのだ。みんなそれぞれに「悩んでいます」「頑張っています」という感じで、人間ドラマとしては、もう一捻りの工夫が欲しかった。
(B)の「特撮パートは、力が入っていて楽しめた。」というのは、ここに収めた画像で、十分にご理解いただけるはずだ。
本作は、SF映画の新時代を画したスタンリー・キューブリック監督の『2001年宇宙の旅』(※ 以下『2001』と略記)の6年前の作品で、見た目にも明らかな『2001』以前の作品なのだが、それはそれで独自の世界観があって、味もある。そして、その「味」とは、戦前日本の「変格探偵小説」につながるものであり、わかりやすく言えば、海野十三や香山滋の流れを汲んだ、その正統的後継作品だということだ。
(C)の「宇宙服や宇宙船のデザインが、レトロフューチャーで、今となれば「ユニーク」だが、若い頃に見たら「ダサダサ」だと感じもしただろうものだった。」という点については、今の若い人は当然わからない話なのだが、私が子供の頃「昔の少年雑誌には、こんな未来想像図が掲載されていた」といった紹介記事を、それこそ少年雑誌で時々見たのだが、そのハズれた「未来想像図」に描かれたものが、まさに本作のメカニカルデザイン(センス)そのままなのだ。
私の子供時代にしてすでに、さらに昔の少年雑誌に描かれていたような「未来社会」は、実現こそしなかった(はずれた)ものの、しかし、そこでの空想的なデザインセンスだけは、生き残っていたのである。
さて、本作『妖星ゴラス』の「ストーリー」は、次のようなものである。
ひとことで言うと「そのまんま(来たから逃げた)」であり、何の曲もない。だから、この「ストーリー」自体については、何も言うことはない。
「危機回避もの」として真面目に「ハードSF」しようとして点は買えるが、やはり、人間ドラマが「型どおり」では、映画としてはつまらないのである。
そんなわけで以下は、私が気づいたあれこれについて指摘しながら、それにコメントを付していこう。
・ 『土星探査の任務を負った日本の宇宙船JX-1・隼号』の描写だが、いかにも宇宙船のコックピットではあるのだが、そこにはなぜか「重力」が働いている(『2001』のディスカバリー号のような、遠心力を利用した重力発生装置のようなものはない)。この点は、いかにも『2001』以前の作品で、その意味では『スター・トレック』や『宇宙戦艦ヤマト』などのテレビSFドラマと同レベルだと言えるだろう。
しかしまた、それにしては、地上の「訓練センター」では、リアルに寄せた宇宙服を着て「無重力訓練」をしているシーンもあって、このあたりは「Wikipedia」にあるとおり、本作の前年の1961年に、ソビエト連邦(ソ連)による『ボストーク1号の有人宇宙飛行の成功など、宇宙開発に注目が集まっていた』ことの、直接的な影響なのだろう。
ちなみに、このようにソ連がアメリカに先んじて「有人飛行」に成功させたから、この後アメリカが頑張ってアポロ計画(1961年〜72年)を推進し、ソ連に先んじて月面着陸(1969年)を成功させた、というのが時代の流れである。つまり、本作制作の段階では、まだ人類は月に降り立ってはいない。そして本作では、月に関しては何も語られていないので、地球を移動させた際、月がどうなったのかは謎のままである。地球に引っ張られて、一緒に移動したのであろうか? そうでないと、あとでいろいろ困ったことになりそう。それとも、潮の満ち引きが無くなっても困らないのだろうか? 地球丸ごとの移動に比べれば、小さな問題かもしれないが。
・ 土星探査宇宙船の隼号が、急遽ゴラスの観測に向かい、その予想外の重力場に捕まって脱出不能となってしまった後、艇長が「もはや脱出は不可能だが、我々の送った貴重な観測データは、きっと人類の役に立つだろう。諸君、最後までありがとう。よくやってくれた」といったような「訓示」をして、乗組員たちが感動の涙を流しながらそれを聞き、自然発生的に「万歳」をやり出すところが、さすがは戦争体験世代の作った映画だな、と感心した。
先の戦争を描いた映画でも、艦隊戦などに敗れて艦艇が沈む際、艦長が大和魂(あるいは、サムライ・スピリット?)を感じさせる立派な「訓示」をするといったエピソードが描かれるが、そうしたことが、この描写のベースにあるというのは明らかで、だからこそ最後に「バンザーイ、バンザーイ!」となる。
しかし、これを今の人が見たら「なんで死ななきゃならない時に万歳なの?」と疑問に思うことだろう。だが、「万歳」というのは「喜ばしい」状況になった時にするもの、なのではなく、本来は「天皇陛下万歳」「日本国万歳」なのだ。要は、天皇や日本国が「万代にも続きますように」という意味の言葉(呪言)なのである。そしてここでは、「自分たちが死んでも、それらに貢献できたことを嬉しく思う」と、そんなニュアンスを込めたもので、ここでの「万歳」は「地球万歳」「人類万歳」というニュアンスのものだったのである。
・ 政治家たちの描写が、妙にリアルかつ否定的だったところが興味深かった。
隼号乗組員全員の殉職が判明した際に、内閣の大臣たちが「責任問題だよ、これは」「なんで、艇長判断で土星探査を中止して、ゴラスになど向かったんだ? 艇長に、そんな計画変更判断の権限などあるのか?」などと話しているところが、何ともリアルだったのだ。『シン・ゴジラ』(2016年)や『ゴジラ−1.0』(2023年)での政治家描写より、よっぽどリアルだったのである。しかしこれも、戦後の「政治不信」というものが、それでも今のような「政治への諦め」にまでは至っていなかったせいなのだろうか。
・ SF的な面で、やはり引っかかったのは、地球そのものに推進器を取り付けて移動させてゴラスを避けるというアイデア。
まあ、普通に考えれば、移動させるだけで、大変な天変地異が起こりそうなものなのだが、そこには一切触れず、地球が動き出しても、特に異変は起きない。ゴラスが地球をかすめる際には、その重力(引力)の影響によって大津波が起こり、甚大な被害が出るのだが、それは地球自体が動いたせいではないのである。
まあ、『アルマゲドン』(1998年)のように、迫り来る惑星を命懸けで破壊するというお話なら簡単でいいのだが、本作のウリは、あくまでも地球を丸ごと移動させるという「雄大さ」にあるのだから、地球自体の移動で起こるであろうことについては、あえて不問に付したのであろう。山本弘の『地球移動作戦』では、そのあたり、どのように処理していたのであろうか?
・ 隼号の事故を受けて、鳳号のゴラス探査が予定されたところ、これに待ったがかかったので、乗組予定だった若い宇宙パイロットたちが、ヘリを駆って「宇宙省」に乗り込み、村田宇宙省長官(西村晃)に、直談判に及ぶというシーンがあるのだが、このあたりも、今の日本人の感覚ではピンとこないだろう。所詮は下っ端が、組織のトップに文句を言いに行くわけなのだから。
しかし、これも戦時中の軍隊においては、意識高い系の若手士官たちが、連れ持って上官にねじ込みに行くみたいな雰囲気があったことの「なごり」ではないかと思う。軍隊には「命を捨てる現場が偉い」という雰囲気があって、指揮官クラスは、無闇に威張らなかったからだろう。なにしろ、現場で死んでもらわなければならない相手なので、日頃からそのように遇していた部分があったのだ。「やる気があっての意見なら、耳を傾けよう」と、そんなポーズである。
あと、この宇宙パイロットたちが、ヘリで宇宙省へ向かう際、みんなで歌(調べてみると「俺ら宇宙のパイロット」というタイトルと判明)を歌うのであるが、その歌詞が、
とまあ、こういう、実に「ベタ」なものなのだが、私が子供の頃に『週刊少年マガジン』で読んでいた、横山光輝の漫画『狼の星座』(1975年〜76年)は『大正期〜昭和初期の中国東北部を舞台』にした日本人「馬賊」が主人公の物語なのだが、この漫画に、日本人の若者が歌う「僕も行くから君も行け(…)せまい日本にゃ住み飽きた♪」という歌詞の歌を唄うシーンがあったのを思い出した。つまり、この漫画の原作の舞台となっているのは、日本が中国大陸への帝国主義的侵略を進めようとしていた時期で、若者たちには「東洋雄飛」の夢が煽られていた時代だった、ということなのだろう。
そして、そうした余韻が、この「俺ら宇宙のパイロット」にまで木魂しており、「日本」が「地球」に、「大陸」が「宇宙」に変わったということだったのではないかと推察される。やはりこれも、制作スタッフが「戦中派」なればこそなのであろう。
・ この時代(1962年)の作品にもなると、私が子供の頃に見ていた『ウルトラQ』(1966年)や『ウルトラマン』(1966〜67年)に出演していた俳優たちが、若々しい姿で出演していて、とても懐かしかった。
『ウルトラQ』の主人公・万城目淳を演じた佐原健二、その助手・戸川一平を演じた西條康彦の顔も見えた。
『ウルトラマン』で、科学特捜隊のイデ隊員を演じた二瓶正典も、相変わらずのお調子者キャラで、鳳号の乗務員の一人として出演していた。
『仮面ライダー』(1971年〜73年)の「死神博士」でお馴染みの天本英世も、キャバレーの客として出演していたが、当然若かった。もっとも、天本の場合は、昨年見た、黒澤明監督、三船敏郎主演の『椿三十郎』(1962年)に、若侍の一人として出ていて、こっちはもっと若く見えたのだが、本作と同じ年の作品である。
・ 先に、本作の「SF」性とは、『2001』以降のアメリカSFの(リアル)文脈とは少し違った、戦前日本の「変格探偵小説」の流れを汲むものだと指摘したとおりで、日本で「SF」という言葉が普及する以前には、そうした作品も、すべて「探偵小説」の一種として考えられていた。
ただし、今の「謎解きミステリ」が「本格探偵小説」と呼ばれ、それ以外の「幻想小説」「怪奇小説」そして「SF」などは、全部ひっくるめて「変格探偵小説」と言われていたのである。だから、『ゴジラ』の原作者である香山滋も、奇妙な生物の登場する作品を得意とした「変格探偵小説家」だった。
そして、香山滋や「未来科学もの」が得意な海野十三などに比べると、小説家としてはかなりマイナーではあったものの、本作『妖星ゴラス』の原作者である丘美丈二郎も、そうした系譜に連なる「変格探偵小説家」の一人であり、近年に『丘美丈二郎探偵小説選』(全2冊・2013年)なども刊行されている。ここで言う「探偵小説」とは、そういう意味のものなのだ。
そんなわけで、『2001』を経た後の「リアリズム」の感覚からすると、この「東宝特撮映画」シリーズは、「SF」と言うよりも「空想科学映画」といった方が妥当な、別筋の世界観を持ったものだとも評価し得るだろう。
たしかに、今の感覚からすれば「ダサい」という印象は否めないが、これも一種の「レトロ・フューチャー」として、かえってマニアックな鑑賞の対象にもなり得るのではないだろうか。
ともあれ、私個人は、この機会に、本多猪四郎監督の「空想科学もの」を、ひととおり見てみたいと思っている。
(2025年1月17日)
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