ニック・ランド 『暗黒の啓蒙書』 : ネトウヨには ちと難しい 〈厨二病〉風デマゴギー
書評:ニック・ランド『暗黒の啓蒙書』(講談社)
内容が理解できなくて「勘違いしている読者」も少なくないようだが、本書は「思想書」ではなく、「現代の病理を映す症候群の一症例」として、現代の知的読者の参照に供されたものにすぎない。
つまり、本書は「こんなので喜んでいる馬鹿が少なからずいるんだ。こまった知的後退だな」というふうに読まれるべく提供されたものであって、本書『暗黒の啓蒙書』そのものに「共感」する読者というのは、その困った「病い」に罹患している「病んだ人」だ、ということになる。
私は先日、ヒトラーの『わが闘争』を読んで、そのレビューを「煽動家ヒトラー氏曰く「馬鹿は本書に乗せられる」」と題したが、これは本書についてもまったく同じで、ニック・ランドは、自身の思想を真摯に語るのではなく、煽られやすい「馬鹿な大衆」を意識し、彼らを煽動するために、本書(この文章)書いたのである。
私は、前記の『わが闘争』についてのレビューの冒頭で、次のように書いた。
そして、これは私が言っているだけではなく、ヒトラー自身もそう語っているのだと、『わが闘争』から当該部分を引用紹介した。
つまり、本書『暗黒の啓蒙書』についても事情はまったく同じで、本書を褒めているような読者は、本書の意図がまったく読みとれておらず、内心では彼らを知的に見下している、ニック・ランドの掌で良いように転がされているだけなのだ。
じっさい、本書の翻訳者も、「訳者解説」で身も蓋もなく、本書の「デマゴギー」性、つまり「政治的意図を持ち、本音を隠して流された、欺瞞的情報」というその「正体」を告発しているのだが、とにかく文章を「読めない読者」は、哲学思想用語がちりばめられ、有名人の言葉をたくさん引用した、その「ペダンドリ(衒学)」にやられてしまう。「なんだか凄そうだし、かっこいい」と。
こうした「読めない読者」には、本書は、ダーク・ファンタジー系のRPGなどに良く登場する「魔道書」のような魅力を発するのだが、すこし歳を食って知恵がついたなら(あくまでも知恵がついたなら)、本書をもったいぶって有り難かった過去を恥じ「黒歴史」として封印したくなるような、本書はそういう類いのものでしかないのだ。
そんなわけで、一言で言えば本書は、勉強のよくできる、被害者意識にまみれた子供の書いた、オタク的「悪意ある物語設定書」である。
ニック・ランドの根底にあるのは、「不遇なエリートとしての自己意識」という、被害者意識にほかならない。
「およそ脳のはたらいていない、人間と呼ぶべきではない〈ゾンビ〉たちの宗教的イデオロギーである〈民主主義〉なんていうものが世界を席巻した結果、自分たちのような〈才能と稼ぎのあるエリート〉は、その血肉を喰いちぎられ、食い物にされている。こんな現状は、とうてい容認できるものではない。われわれはこの世界を、人間の手に取り戻さなければならない」一一という、『進撃の巨人』めいた世界観の提示が、本書の趣旨だと言っていいだろう。
つまり、彼は「エリートしか、人間だとは認めない」、エリート主義者なのである。
ニック・ランドのような病んだエリートが、このように考えたくなる気持ちも、理解できないものではない。自分の稼ぎは自分のものであり、なんで働きのないゴミのような奴らにまで分け与えなければならないのか。なぜ我々がゾンビたちを養わなければならないのか、というのは、エリートや富裕層が常に考えていることだからだ。
しかし、それをそのまま語ってしまっては身も蓋もないし、世間を動かすことも出来ない。だから、ニック・ランドはお得意の教養を駆使して、「クトゥルフ神話」などを意識しながら、彼なりの「暗黒神話」を語り、他の(あまり頭の良くない経済)エリートたちを「逆啓蒙=暗黒啓蒙=煽動」しようとしたわけである。
つまり、わかりやすく喩えて言えば、オウム真理教の教祖・麻原彰晃が、信者たちに「終末論的世界観」を語って「ハルマゲドン(最終決戦)」を煽ったのと大差ない、客観的・知的には幼稚な、病的煽動だったのである。
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本書は、このような「デマゴギー」の書なので、中身にはまったく具体性はなく、ただ彼の描く世界観が、断言口調でご都合主義的に語られるだけであり、その意味では、本書でも言及されているヒトラーの『わが闘争』と、まったく同じパターンである。
つまり、不遇意識をかこつ同類たちに向けて、「形容過多な言葉」を連ねて煽っているのである。
ニック・ランドは、世間の主流派の人たち(啓蒙主義者・民主主義者・普遍主義者)、つまり「大伽藍〈カテドラル〉」が、ヒトラーを「悪の権化」として偶像化し、その宗教的教義を流布し(人々を洗脳し)ている、と非難するが、そうした批判は、彼自身の言挙げする「悪の秘密結社としての、大伽藍〈カテドラル〉」という「お話」の方が、よほど「厨二病向けに創作されたオタク宗教」の教義と呼ぶにふさわしいものであろう。
無論、彼自身は、こんな「ストーリー」を本気で信じているわけではなく、「頭の弱い人たち」を扇動するための「魅力的な物語」として、この「暗黒神話」という、マニアックなフィクションを描いて見せたに過ぎない。
なにしろ「厨二病のオタク」は、マニアックなものが好きである。なぜなら、それで自分を「世間の凡庸な人々」から選別できる、などと思いたがるからだ。
本書でニック・ランドがやったのは、ヒトラーが『わが闘争』で「ユダヤ人の陰謀としての、マルキシズムの脅威」を描き、ユダヤ人を「寄生虫」と呼んで、不遇意識にこり固まった人々の被害妄想を煽ったのと、まったくことだ。
ニック・ランドの場合は、これが「カテドラルの陰謀としての、民主主義という普遍主義」であり、人間の姿をした(「寄生虫」ならぬ)「ゾンビ」たちから人間を守れ、というふうに、字面だけは現代風にバージョンアップされているのである。
無論、ニック・ランドが、白人の味方だと思う白人は、愚かである。彼は「エリート」を擁護しているのであって、「白人」を擁護しているのではない。
ただ、昔に比べれば、白人の社会的地位が相対的に落ちており、そのことに「被害者意識(ルサンチマン)」を募らせている白人を見て、「こいつらは馬鹿だから、利用できる」と考えたに過ぎない。言うまでもなく彼にとっては、「稼ぎのない白人」の救済など、ゾンビの増産にほかならないのだ。
結局彼は、勝った負けた(権力を取った取られた)の話しかしておらず、問題をどう解決するかには、興味がない。彼にあるのは「われわれは被害者であり、つまり奴らが加害者なのだから、加害者を人間社会から切り離し、人間社会を守らなければならない」という、自己中的な主張でしかない。
そこには「世界には、自分たちがいて、彼らもいて、双方が完全に満足できる社会の実現は困難であるにしても、よりマシな社会であるためにはどうしたら良いのか」などという「人類全体に対する責任感」など欠片もない。彼は、自分たち「大衆に疎外されたエリート」のことしか考えていないし、そんな我利我利亡者である彼にとっては、他の「不幸不遇な人々」の処遇など、「他人事」としてまったく興味がないのだ。
ちなみに、ニック・ランドが本書の最後で示す「外部」像は、なかなか興味深い。と言うか、ほとんど「夢オチ」みたいに唐突な話で、思わず笑ってしまいそうになった。
もちろん、生物工学的に人間を作り変えてしまえば、そこに「外部」の開ける可能性はあろう。それがあり得ないなどと頭の固いことを言うつもりもないが、そんな蓋然性の低い「先の話」をしてたのかと、いささか肩透かしに過ぎるお話だ。
しかしまたこれは、翻訳者も指摘しているとおり、本書が基本的に「真摯な思索思想書」ではないからである。つまり、結論なんてどうでも良く、せいぜい「読めない読者」を喜ばせる「思わせぶりなホラ話」であれば十分だという、ヒトラー同様の「読者をなめた態度」で書かれているからこそ、清涼院流水の『コズミック』にも劣る「広げた風呂敷を、まったくたたみきれていないオチ」になっているのである。
しかし仮に、彼の言う「切り離された外部」が、この「地球上」に確保できたとしても、その先にもまた、彼が言うところの〈カテドラル〉が形成されるのは、まず間違いない。ただ、そこでは、彼らの方が〈カテドラル〉を形成するのだ。
つまり彼らは、切り離された1000人のエリート社会の中から生まれた10人の劣等者(ゾンビ)を排除して、990人のエリート社会を確保するだろう。しかし、その990人の中からまた9人ほどの劣等者が、きっと生まれてくることだろう。
畢竟「知的・経済的エリートだけの世界」を作ったところで、やはりその場合にもまた「相対的な劣等者」は自ずと生まれ、またそんな人たちを排除するという同様の方法で「外部」を目指すしかなくなる。そして、その理屈で「社会的足手まとい」をどんどん切り捨てていった果てに存在するのは、結局「そして誰もいなくなった」世界でしかないはずなのだ。
したがって、ニック・ランドが指し示す「切り離されたユートピア」世界という「疑似餌としての夢想」など、わざわざ本で読むよりも、映画で観たほうが、ずっと面白いものにちがいないのだ。
【補記】
本書についての、私の「星1つ」という評価は、言うまでもなく、ニック・ランドの著作の内容についての評価であって、翻訳者の意図にたいする評価ではない。
したがって本書は、「反面教師的なテクスト」としてならば、高く評価できるのである。
初出:2020年6月8日「Amazonレビュー」
(2021年10月15日、管理者により削除)
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