小津安二郎監督 『一人息子』 : 「暗い予感」に満ちた作品
同年制作の記録映画『鏡獅子』を別にすれば、本作は、小津安二郎の初トーキー作品(音声つき映画)である。
1936年(昭和10年)といえば無論「戦前」。どのような時期なのかを簡単に紹介しておくと、3年前の1932年(昭和7年)が「満州国建国」の年である。つまり、日本はすでに東亜覇権の侵略的野望を、着々と実行に移しつつあった時期であり、翌1933年(昭和8年)には「国際連盟脱退」をしている。
そして、本作が作られた翌翌年の1937年(昭和12年年)には「日独防共協定締結」。1938年(昭和13年年)には「盧溝橋事件」が発生し、「日独伊三国防共協定」が締結され、関東軍(日本軍)の中国・南京市攻略による「南京大虐殺」が起こる。一一と、こういう時期である。
ちなみに、本作と同じ年には、私の好きな探偵小説、夢野久作の『ドグラ・マグラ』と小栗虫太郎の『黒死館殺人事件』が刊行されている。
つまり、総じて言えば、危機の予感の時代から全面戦争へと突入していく、過渡的な時期だと言うことができるだろう。
しかし、本作『一人息子』については、明白なかたちでは、「戦争の影」らしきものは差していない。
ただし、都会へ出て「立身出世」することが夢見られていた時代のようでもあるから、要は、すでに日本も「植民地」を得て、さらなる「拡張発展路線」に入っていたということにはなるだろう。
本作は、信州の田舎の貧しい母子家庭の少年が、学問を身につけることで出世しようと東京に出てきて、その「母子共通の夢」に敗れた姿を描いた作品だと言えよう。
本作を「夢破れたところからの再起を誓う」という「前向きな結末」を備えた作品だと理解する向きもあるようだが、私はそのようには理解しなかったということである。
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本作の「あらすじ」は、次のとおり。
以上のとおりではあるが、すこし補足しておこう。
やる気があり溌剌としていた担任教師の大久保に「これからの時代は学問を身につけなければ、田舎でくすぶることになる」と言われて、当初はその気のなかったおつねも、一大決心をして良助を東京に出し、大学まで進学させる。
そして、東京で市役所に勤めているはずの息子に会いに上京したところ、驚いたことに、良助はすでに結婚しており、赤子も生まれていた。また、「市役所」に勤めて安定した生活をしていると思っていたのに、手紙をもらった一年後のその時には、すでに良助は市役所を辞めて薄給の夜学教師をしており、とうてい立派とは言い難い「場末の一軒家」に住んでいたのだ。
しかしそんな良助は、上京した母を笑顔で出迎え、嫁と子供を紹介し、母を東京見物に連れて出すなど、最大限のもてなしをする。
だが、じつのところそれは、明日の生活費にも苦労するギリギリの生活を、母の目から糊塗しようとするものでしかなかった。自分が、母の期待を裏切っているという自覚はあったので、本当はもう少しマシな生活ができるようになってから、市役所を辞めたこと、結婚したことや子供ができたことを伝えるつもりで、ずるずると時だけが過ぎてしまい、いよいよ母の目から、自分の現在の生活を隠しきれなくなったのである。
そんなわけで、本作の前半で特に印象的なのは、息子の現在の生活実態を知って驚き、その感情を抑えながらも失望を隠しきれない母の様子と、それとは対照的に、息子の方は今の困窮生活をさほど気にしておらず、母の失望にも気づいていないかのように、やたらにこやかで愛想の良すぎる様子だ。
だが、前述のとおりで、これは母に弱みを見せまいとした息子の意地であり演技であったことがやがて判明する。
良助は、母と歩きながら、「お母さん、こんな今の僕に失望したでしょうね」と、ポツポツと本音を打ち明け始める。なんでそんなことを言うんだと問い返す母に、良助は「僕だって、今のままでいいとは思っていません。でも、言い訳をさせて貰えば、自分は決していい加減に生きてきたわけではなく、精一杯頑張ったんだ。だけど、人の多い東京で地位を得るのは、ちょっとやそっとのことではないんです。もしかするともう、僕の小さな双六の上がりなのかも知らない」と、そんなことを言う。
おつねは、半ばあきらめの滲んだ良助の態度に、不満を感じ「お前はまだ若いんだから、これから頑張ればいい。希望さえ捨てなければ、きっと努力は報われるはずだし、私もそれを信じて長年苦労をしてきたんだ」と励ますが、良助の態度は煮え切らず「でも、一生懸命やってきたということだけは信じてください」というような弱気な調子であった。
一方、夫が母を歓迎するための金を同僚から借金し、それも遣い切って困っているのを見かねた妻は、自分のなけなしの着物を売って工面した金を「これでお母さんを、どこかに連れて行ってあげて」と夫に手渡す。
そして翌日、3人が出かけようとした時、隣家の子供が、空き地に繋がれていた馬に蹴られて負傷するという事件が発生する。
現場に駆けつけた良助は、おつねや少年の母親の見守る中、少年を抱えてすぐさま病院へと駆け込む。治療の結果、幸い少年は軽症で済んだものの、しばらく入院することになった。しかし、良助らと同様、生活に苦しい少年の母親が、少年の思わぬ入院に戸惑っているのを見て、良助は「これを使ってください」と、妻が着物を売って作った金を渡し、相手が遠慮するのを「困ったときはお互い様です」と言って受け取らせ、少年の母は、良助やおつねに、心からの感謝の言葉を述べるのであった。
そして、その病院からの帰り道、おつねは良助に「お前に失望なんかしていない。今日のお前の態度はとても立派で、心から感心した。だから頑張ってほしい」と告げる。
そして、翌日、おつねは「紙幣を包んだ、励ましの手紙」を残して、黙って帰郷していた。
それを読んだ良助は、おつねの手紙に感涙して「あなたは本当に良いお母様をもった」と言う妻に、「僕はもう一度、勉強することにした」と、現状打破の決意を述べるのであった。
一方、帰郷したおつねは、昔から仲の良い製糸工場の同僚に「東京はどうだった?」と聞かれて、「息子が立派になっていて、本当に嬉しかった」と嘘の報告した後、工場横に空き地に出て、ひとりぼんやりと腰掛けるのであった。
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つまり、おつねは、決して、今の息子の姿に満足しているわけではないのだ。
たしかに困っている人を助ける姿には感心したし、その点では立派に育ったとも思うけれど、しかし「それだけで満足できたわけではない」ということなのである。
そして、こうしたラストからも分かるとおり、良助の「再出発の決意」が、良き結果に結びつく公算は低いという現実を、このラストは暗示している。
なぜなら、良助があれだけ繰り返した「人の多い東京では、恵まれた地位を得るということは、決して簡単なことではない」というのは、実際、そのとおりの事実だからである。決意や努力だけでどうにかなるほど、甘い世の中ではないというのを、小津監督は重々承知の上で、それを「リアル」に描いて見せたのが本作なのだ。
ただし、善良な敗残者の姿をそのまま描くだけでは、あまりにも救いのない物語となってしまい、観客も映画を見終えて「嫌な気分になるだけ」だろうから、そこは一応「希望をほのめかせた」ラストにしたのであろう。だが、監督自身、そんな「甘い夢」など信じていないというのは、少なくとも私の目には、明らかなものだったのである。
したがって、本作は、戦後の、どこか「のどか」なところのある、それゆえに評判の良い作品とは違って、非常に「リアル」であり、そのぶん「暗い」。
私が見た範囲で言えば、例えば、のちの『風の中の牝雞』(1948年)や『東京暮色』(1957年)ほど暗くはないものの、小津安二郎作品といえば「一人娘の父親(役)である笠智衆」だといったイメージに象徴されるような「穏やか」な世界を、少なくとも本作では描こうとはしてはいない。
しかしまた、そう考えてみると、じつのところ小津安二郎は、遺作となった『秋刀魚の味』(1962年)まで、ほぼ一貫して「敗者の現実」を描いてきたのではないだろうか? 一一ただし、それが「ウケない」という経験を積むごとに、それを正面から後景(ワキ)へと後退させてゆき、その成れの果てが、『秋刀魚の味』で、東野英治郎が演じた「元教師の中華屋のオヤジ」なのではないだろうか。
そうすると、本作が教えてくれるのは、小津安二郎は、決して「庶民の幸福な日常」を描いた作家ではなく、「庶民のリアル」を描く作家から、徐々にその特性を後退させるかたちで「日本的エンタメ」を描くことに成功した、そんな映画作家なのではないだろうか。
総論的なそれはさて置くとしても、本作にかぎって言えば、小津安二郎もまた、時代の「不穏な空気」を感じていたのではないだろうかと、そんな感じを受けもする。
「出世」が象徴する「富への希求」の行き着く先は、決して明るいものではないというの感じて、この「救いのない物語」を描いてしまったのではないか。
主人公は、良かれと思って、更なる努力を誓い、もしかすると出世できるかもしれない。けれども、出世した彼が「幸福」になれるという保証はどこにもない。
実際、彼が生きていたら、『風の中の牝雞』の、主人公夫婦の夫のように戦争に取られていただろうし、そこで死んだかもしれない。あるいは、生きて戻ってきたとしても、『風の中の牝雞』の夫婦のようなことになったかもしれない。
両者は、生活費に困った妻が「なけなしの着物を売る」という点で共通してもいる。
もちろん、小津安二郎に「予知能力」があったわけではないから、「戦争」を予見していたと断ずることはできない。
けれども、本作の冒頭には、芥川龍之介の『侏儒の言葉』から、
という言葉が掲げられており、ここだけを見れば、本作における「親子関係の重さ」を象徴させた言葉だと解するのが普通なのだろうが、しかし、芥川の同書には、次のような言葉もある。
あるいは、
ちなみに、芥川龍之介が「或旧友へ送る手記」に『唯ぼんやりした不安』と記し、そして自殺したのは、本作『一人息子』の8年前の1927年(昭和2年)のことであった。
芥川の感じていた『唯ぼんやりした不安』が何であったのか、それは定かではないけれども、本作の作られた1936年(昭和10年)に、小津安二郎が「ぼんやりした不安」を感じていたとしても、それはなんの不思議もないことであろう。
そして、「母子の失望の物語」を描くにあたって、上の言葉『人生の悲劇の第一幕は親子となったことにはじまっている。』を掲げたのだとしたら、そこには、その当時の「今の日本」において、親となったこと、子として生まれてきたことの悲劇を、漠然とした不安として予感していた、ということなのではないだろうか。一一少なくとも、その可能性は否定できないはずだ。
なぜなら、「希望に満ちた未来」は、しかし人々の努力にも関わらず「不幸な結末」とならざるを得ないことなど、当たり前にあるのが、この世だからである。
その意味で、本作は「再帰を決意した、希望あるラストを備えた作品」などではなく、むしろ真逆に「暗い予感に満ちた作品」だと、そう評しても、あながち間違いではないと思うのだが、さて、如何であろう。
(2024年3月30日)
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