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須田桃子 『合成生物学の衝撃』 : 〈人類の宿命〉への抵抗

書評:須田桃子『合成生物学の衝撃』(文春文庫)

合成生物学とは、読んで字のごとく「生物を合成する学術」である。「生命を作る」のだ。

『合成生物学の対象は、バイオテクノロジー、遺伝子工学、分子生物学、分子工学、システム生物学、生物物理学、化学工学、生物工学、電気工学、制御工学、ならびに進化生物学などの分野を組み合わせたものである。合成生物学は、研究、工学および医学への応用のための人工生物学的なシステムを構築するために、これらの分野を活用する。』(Wikipedia「合成生物学」より)

本書で提起されている問題は、極めてシンプルだ。
「人間は、新しい生物の創造という技術を行使するだけの、責任を持てるのか(取れるのか)」ということである。

合成生物学によって「新しい生物」を作って、人類が得られるものは、当然のことながら、多い。
なにしろ「人類の役に立つ生物」を作るのだから、得られるものが多いのは当然だし、そういった「実利的」なものだけではなく、リチャード・ファインマンの「自分で作れないものを、私は理解していない」という言葉が示すように、実際に「生命を作る」ことによって、真に「生命を理解できる」という「知的」「純粋学問的」なメリットもあるようだ。

だが、当然のことながら、「新しい技術」には、常にデメリットがつきまとい、その技術が強力なものであればあるほど、そのデメリットも大きなものになる怖れが強い。

どんなデメリットがあるかと言えば、これもわかりやすく言うと、例えば「人造人間」が作れる。キャプテン・アメリカのような「強化人間=強化兵士」を作ることもできる。当然「強化生物」だって作れる。
今すぐというわけにはいかなくても、このままいけば、そうした技術を、人類は、早晩手にすることができる。「科学技術」は、確実に長足の進歩を遂げているのである。

一一しかしながら、人間の「理性」や「倫理性」は、まったく進歩してはいない。いや、「理性」や「倫理性」は、進歩しない、と言っても良いだろう。「知恵」や「知識」は蓄積されるけれども、人間の「脳」が倫理的に進歩しているわけではないからだ。

当然のことながら「合成生物学」は、軍事利用を目的とした研究にも関わっている。本書の舞台となる、アメリカで、科学研究の最大のパトロンとなっているのは、軍部だ。
もちろん、軍部とて「戦争のための研究」とは言わない。「自衛のための研究」であり、「デュアル・ユース(軍民両用)」つまり、軍事だけのものではなく、民間にも利益をもたらす研究である、という「建前」である。

そして、無論これは、アメリカに限った話ではない。
「安倍晋三政権」になってから「安全保障技術研究推進制度」が導入され、防衛省には同制度にもとづく研究のための莫大な予算がつくことになり、それが大学の研究者たちへの研究資金として提供されるかたちになっている。要は、本書でも描かれているとおり「金で研究者を釣っている」のである。

その結果が、あの「日本学術会議員の任命拒否事件」である。

「日本学術会議」は、「安全保障技術研究推進制度」が導入された際、大学における軍事研究について、大学側に厳しい事前チェックを行うよう提言をした。そして、多くの大学も、この提案を肯定的に受け入れた。

だが、「非核三原則」を撤回し、「武器輸出三原則」を「防衛装備移転三原則」に変え、周辺事態法などの有事法制を整備して、着々と日本を「戦争ができる国」に改造してきた「安倍政権」、その路線を継承した「菅義偉政権」が、「余計な口出しをする日本学術会議」を快く思わないのは、当然だったのである。

実際、防衛省の資金提供による「大学での研究」では「デュアルユース(軍民両用)」ということが強調されているが、これは端的に「アメリカの猿真似」あるいは「後追い」だ。
だが、そのアメリカにおいても、「デュアルユース(軍民両用)」といった「きれいごとの建前」が、まったく信用されていないというのは、本書でも描かれているとおりである。

ただし、現代の「先端科学研究」には、莫大な予算が必要であり、しかし、アメリカでも日本でも、大学の研究者が予算の獲得に四苦八苦している、というのが現実だ。そして、研究者というのは、研究ができてこそ研究者なのだから、金が無いとなれば、「きれいごとの建前」を鵜呑みにしたくなるのが、「人情」というものであろう。
つまり、いくら世界的な科学者、世界的な知性の持ち主たちであっても、「背に腹はかえられぬ」ということで、要は『「理性」や「倫理性」は、進歩しない』という結果になるのである。

したがって、科学技術の進歩は止められない、と断じて良いだろう。
そして「福島第一原発事故」がそうであったように、私たちが今ここで「想定しているような事態」が、「想定外の事故」として、必ず起こってしまうだろう。当然、少なからぬ「犠牲者」が出るのだが、その「犠牲者」とは、あなたかもしれないし、私かもしれない。
あなたではなくても、あなたの家族や友人かも知れないし、あなたの子や孫かも知れない。その先の子孫かも知れない。
いずれにしろ、昨今の天災や人災と同様、自分が「運悪く」犠牲者や被害者になったら、「コロナ禍での政治的失策による被害」でさえそうであったように、ろくに賠償や補償されることもなく、悲惨な目にあわなければならないだろう。結論的には、あなたは「ついていなかった」ということで、泣き寝入りするしかないだろう。

しかし、こうなるのが、「人類の宿命」だとしても、私たちはそれに抵抗しないわけにはいかない。
最終的に、人類の愚かな「欲望」が、人類の「理性」を上回るとしても、泣きを見なければならないのが、私たちや、その子や孫であるのならば、つまり「一部の保護された上級国民」ではない、私たちであるのなら、黙って「上級国民」の欲望の犠牲になるわけにはいかない。

本年最大のベストセラー人文書である、斎藤幸平の『人新世の「資本論」』(集英社新書)も「人類が生き延びたいのであれば、成長経済としての資本主義経済を捨てなければならない」と主張するものであったが、そこでも問題の根本は、人類はその「欲望」を自制できるのか、できずに「滅びの道」を突き進むのか、という問いであったと言って良いであろう。つまり、根底では、本書と同じ「難問」に対する、人類の「理性」への問いかけなのである。

「技術の進歩は、止められないだろう」
「賢い科学者も、研究がしたいという自らの欲望を、自制できないだろう」
「欲望が優先された結果として、なかば想定されていた事故が、想定外の事故として必ず起こるだろう」
「多くの人が、その被害にあって死に、生き延びても満足な救いも与えられず、打ち捨てられることになるだろう」
「人類の歴史は、生き残った勝者によって語られ、そこでは敗者の歴史は忘れ去られていくだろう。せいぜい、役に立てることもできない、形式的な教訓になるだけであろう」
「人類は、欲望には勝てず、同じ過ちを繰り返した果てに、やがて自滅するだろう。そうなれば、早い遅いはあっても、すべての人類が、被害者であり犠牲者になる。」

これが「人類の宿命」である蓋然性は、きわめて高い。
そして、それへの「抵抗」は、たぶん「時間稼ぎの撤退戦」にしかならないであろう。
しかし、私個人は、せめて「一矢報いたい」と思って、これを書いている。

妻も子もいない私の場合は「一矢」だけでも十分だが、子を持つ人なら、果たしてそれでいいのだろうか?

「世界的な知性」を持っているはずの科学者の多くも、そこまでは考えていないようだから、一般の多くの人々が、ここまで考えられないというのも、「人類の(滅びのための)宿命」なのかも知れない。

リチャード・ファインマンは「自分で作れないものを、私は理解していない」と言ったし、その言葉を受けて、だから「生命を作る」ことによって、真に「生命を理解できる」「だから、私は生命を作るのだ」と主張する、世界トップクラスの合成生物学者がいる。

しかし、「作ることができる」ことと「理解できる」ことは、同じではない。
「作れる」けれども「よくわからない」ものの方が、むしろ多いのではないだろうか。
「作り方」はわかっても、作ったものが「何なのか」、完全にはわからない。何しろ「生き物」なのだ。

例えば、私たちは「自分の子供」さえ、「よくわからない」のではなかったか。

(2021年7月21日)

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