愛からの逃避は、愛を錯覚していただけだった。
矛盾だらけの生き物。
ここ最近の自分に対してラベリングするなら、これが妥当だろう。
しばらく恋愛を遠ざけようと言いつつも、フロムの『愛するということ』を書店で手に取り、読み耽っているのだから。
読書は得意ではない。だからゆっくりと読み、じっくりと噛み砕く。
時間を忘れて本を読み、物思いにふける時間は、私が知りうる中でもっとも簡単な逃避行である。旅行よりお手頃で、移動も少ない。
最近は逃げてしまいたいことばかりが押し寄せる。だからまた、風邪を引いてしまった。
2024年はやたらと体調を崩す年になっている。
流行病ではなく、しばらく安静にしていれば平熱に戻る原因不明の体調不良が、ほぼ3ヶ月に1回、私の身に振りかかる。
原因不明、と書いたが、実はわかっている。
「自分の限界がわからなくて、キャパシティを超えてしまう」のだ。
今年に入って2度体調を崩しているが、どちらも大学での学び(哲学)を考えすぎた結果だと、自分の中で結論づけている。私の哲学的思索は、精神を病む前に、身体を病ませてしまう。はてさて、何を考えているんだか。
このまま、自分の体調について書くわけではない。
これ以上体調を崩さないためのコツを、『愛するということ』に見つけた気がしたのである。
「機械的な現在」の正当化
フロムは第3章の章題を「愛と現代西洋社会におけるその崩壊」としている。出版されたのは1956年だというのに、いまも同じだなぁと感じる内容があった。
いまの自分は、ここで言われている「必要とされる人間」にはなれていない。正直に言ってしまえば、なりたくなんてない。
義務教育の終わりが見え始めた頃から、「ただ前を見てすすめ」と言われてきたような気がしている。
中学3年になれば、「高校入試に向けて頑張ろう」と言われ、
高校に入学したと思ったら、「志望大学に向けて頑張ろう」と模試を受け、
大学では、「就活は早くスタートすればするほどいい」みたいな売り文句が聞こえる。
「いま」はすべて、いつかのため。
走り終えたと思えば、すぐに新たなレースが始まる。
短距離走だと思って走っているのに、いつもゴールできなかった。
「ただ前を見てすすめ」という考えは、「止まることは悪だ」という恐怖感を私に植え付けたのだ。
ときどき、深い海に沈むように気分が暗くなることがある。
引き揚げて呼吸があることを確認するや否や、「生きていたら“いつか”いいことがあるから…」と励まされる。
「いま」の苦しみを消してくれるわけではない。
生きているという「投資」をすることで、苦しみが消える可能性に賭けているのだ。
フロムは「成熟した愛は、自分の全体性と個性を保ったままの結合である」(p39)と言っている。自分の全体性が綻びそうだというのに、愛ですって。
そんな能動的な力を発揮できるわけがない。
その不安定さ・不安感を隠す鎮痛剤として、現代社会は「制度化された生産と消費」を提供している。
根本的な欲求から目を逸らせるために機械的な仕事をさせ、受動的な娯楽に浸る。そうやって機械的に仕立て上げられた現代人に対して「結婚とはチームであり、耐えがたい孤独感からの避難所」だと声高に宣伝する。
孤独から逃げた先で、恋人は無条件の愛を欲する。でも、そういった愛が現代社会における病んだ愛の「正常な」姿であり、現代西洋社会における崩壊した愛だとフロムは言う。
崩壊した愛に溺れた過去は、苦い。
未来のことはいったん忘れて、いまの自分が全体性と個性を保つためにはどうしたらいいかということにフォーカスしよう。
まずは友愛と、自己愛から始めてみるのだ。
『愛するということ』は、最後の章を残すのみとなった。読書が苦手なのに、よく頑張ったぞ、自分。
少しずつ学びを染み渡らせるために、この技術を身につけるための習練をしていかなければならない。
とにかく、いまを生きる。
未来はいずれやってくる。
『愛するということ』は自分の中にある苦しみを消してくれる。
今日はちょっとだけ、自分にやさしくなれた気がした。