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システム投資を低く抑えられた「性善説」は、もう通用しない!②
前回、日本でのシステム開発は、「性善説」によりシステム投資コストを低く抑えられてきたという観点で考察しました。作る人も、使う人も、「人を信じる」「信じられる」ということを前提に対応することで、想定すべきリスクに対するコストを抑えることを可能とし、結果、システム投資を大きく抑えることができていたと言えるかもしれません。それは、マネジメント面においても同様であったと言えるでしょう。
しかし、既にグローバル化はビジネスの世界だけではなく、システムの世界においても否応なく押し寄せ、国内だけを相手にした仕組み(システム)であっても、インターネット網を活用する限り、世界からのアクセスに完全な制限を掛けることは難しい時代になっていると言えます。(昔の「専用線ネットワーク網」が懐かしい)
これまでのような、性善説で済まされた時代は「終焉」を迎えたと言っても過言ではありません。
そこで、今一度欧米との考え方や取り組みの違いを検証し、これからの取り組み方ということについて、考察したいと思います。
前回:「1.これまでの考え方」
2.欧米との違い(時代の変化)
欧米では、責任の所在を明確にすることが必然であることから、計画段階において考えられる限りのリスクに対し、出来るだけ事前に組み込む(想定し得るリスクとそれに対する投資額の洗い出しに、「お金と時間」をかける)という意識、発想が常識になっているように思います。それにより、発生したリスクに対し適切な「準備と対処」がされていたか、いなかったのかの判断ができ、「責任範囲を明確にする」ことを実践してきたのではないかと考えています。これは、作る側からしますと、「訴訟対策を万全に」しておくという必然性からというとらえ方もあると思います。
日本人から見ますと、悪く言えば「ぎすぎす感」を助長することにもなりかねないという思いもありますが、良く言えば「緊張感」をもった取り組みを実践しえるということになると言えるかもしれません。
システム構築という面において、「責任論の考え方の違いが、システム品質に対するプロジェクトの取り組み方の違いにも表れる」、といっても過言ではないかもしれません。
【欧米における取り組み意識】
・何でも訴訟に発展させる社会慣習。(「すみません」と言ったら負け)
・「1か0」で考えて、コトを進めるという発想感。(曖昧さの排除)
・事前に、必要な「人、モノ、金(コスト)、時間」を、明確に主張する。(お願いではなく、要請として)
・リーダー(責任者)は、推進のための権限(全権)を与えられる。
・顧客との役割分担、責任の所在を含め、事前に明確に取り決める。
(記載されていることが全て)
・「自己主張、開き直る」ことが許容される。(明確な裏付けのある対応)
など。
※特に、契約書や作業明細書類の条項に、「本契約書に書かれていないことや疑義がある場合は、双方、誠意をもって話し合いをすること」といったような条文は無い。日本では、こうした条項が入っていないと、契約してくれないケースが多い。
3.これからは……
グローバル化がここまで進展した世界にあっては、これまでの日本人的感覚が通用しない時代になってきたと言えまるでしょう。提供される仕組みは、ドメスティック仕様(性善説)ではなく、グローバル仕様(性悪説)でないと、通用しえない時代になっているのではないでしょうか。
昨今のハッキングなどによる影響を考えるますと、今後提供される仕組みは、グローバル環境を前提とし、起こり得るリスク対応をできるだけ事前に想定し、取り込むということが非常に重要であり、日本的な事後対応発想では、多大な損害を被りかねない事態を招くと考えるべきでしょう。つまり、「欧米型思想」での取り組みが必須だということです。
SNSに代表されるネット活用の浸透は、「自分が信じたいモノ、考え、意見」だけを取り入れる世代が増え、今や、昔の考え方(「曖昧な情報なのだから、信じられるハズはないし、大きな影響も出ないハズ」意識)では通用しない時代になったと言えるのではないでしょうか。
残念ながら、現実に「システム構築を引っ張っている」のは、まだ昔気質を持った年代の人達が多いのが現状です。例えば、マイナンバーカードの導入による「コンビニでの証明書交付で、別人の書類が誤発行される」といったようなトラブル事象や、実運用面でも個人宛てメールなどに対する「大丈夫だろう意識によるウィルス感染」などの発生は、リスク対応に対する考え方の甘さの現れといっても良いのではないでしょうか。システムの提供の仕方や、その運用面、教育面において、未だに変わっていないのではないかと思えます。
また、SNSを中心としたインターネット利用における「規制」なども、「『禁止事項』は設けるが、罰則規定は設けない」など、未だに「性善説」的な発想(「禁止したのだから、悪いことはしないであろう」という考え方)から抜け出せていないと言えるのではないでしょうか。
それは、欧米を始めとしたグローバル環境が進展する中において、未だに日本のカルチャーを引きずり続け、取り組み方にスキを生じさせていることの表れではないかと、強く感じています。
もちろん、これまでの様な対応で「事が済む世界」は理想的なことであり、それで問題なく対応し得ることは、幸せなことであると思います。しかし、既にそうした世界は、難しくなっているのではないでしょうか。
残念なことかもしれませんが、「ま、いいか」「まだ、大丈夫」的な発想を「一掃」する時がきたのではないでしょうか。そして、必要な「コストと時間を掛けるべき時代なのだ」と考えています。
【必要な発想、意識の転換】
・システム構築において、「性善説的」な発想を捨てること。
・特に、ネットサービス関連の仕組みにおいては、常に「オープン(グローバル)」であるという認識を持つこと。
・人は、「誤解も、ミスも、悪さも」するものだという発想での取り組みが、欠かせない時代であること。
・「公の場(仕事などの場)」において、明確な自己主張を否定するようなカルチャーを、捨て去る時代だと理解(実践)すること。
(このことは、昔から分かっていたことだとは思うのですが)
・システムを、安全、安心に構築、利活用するためには、必要な「コストと時間」を掛ける必要があることを」理解すること。
ということで、今一度、システム構築中のモノを含め、現在の状況、実態を振り返られてみては如何でしょうか。
特に、マネジメント面でのコスト(必要なコストを掛けているか)について、再度、見直すことをお勧めします。
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