森仁 morito

🌳小児白血病 🌳 「研究グループに所属している」と虚偽の説明を受ける。標準的な診断・治療から逸脱した独善的な医療行為により、救命することができず。 🌳患者・医療者双方でより良い医療へ

森仁 morito

🌳小児白血病 🌳 「研究グループに所属している」と虚偽の説明を受ける。標準的な診断・治療から逸脱した独善的な医療行為により、救命することができず。 🌳患者・医療者双方でより良い医療へ

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やってはいけなかった医療①

はじめに 愛する息子、森仁(もりと)が旅立ってからもうじき19年。 「森は命の根源」病気に向き合い力強く闘う姿は、名前の通り生きるエネルギーに満ち溢れていました。 きょうだいもまた、森仁の病気の治癒を信じ、全面的に協力してくれました。それなのに…助けてあげることができませんでした。 森仁は病気に負けたのではなく、治療のスタートラインに立つことができず、生きる道を閉ざされてしまったのです。 急性リンパ性白血病。その診断自体が本当に正しかったのかどうかもわかりません。 医師

    • もりちゃん あさがお募金        

      小学1年で旅立った森仁が遺してくれたあさがお。 毎年種を蒔き続けて19代目になりました。 花を見ると、あちらの世界から遊びに来てくれているような気分になります。 きょうだい帰省時には、一気に大量の花が咲き、そこに蝶が飛んできました。 森仁の魂の感情が自然界の現象に表れているようで、繋がりが感じられたひとときでした。 今年もたくさんの種が採れました。 そこで、「もりちゃんのあさがお」として募金活動を行わせていただきます。 ご希望の方に種をお裾分けして、送料・手数料を除き(公

      • 今日は中秋の名月。 長期間ステロイドを使っていた森仁はmoon face(満月様顔貌)。 特に幹細胞移植後は著明だった。 月を見ると森ちゃんと対話ができる。 まだ暑い秋の夜。

        • #ありがとう創作大賞 「やってはいけなかった医療」を振り返って

          豆島圭さんのご提案 #ありがとう創作大賞に、遅ればせながら便乗させていただきます。 書こう!逃避、書く!逃避。 なかなか継続的に向き合えず、焦燥を募らせながら十数年。 気持ちの変化があったのは去年。 森仁(もりと)を亡くしてからの年月と同じ時間が経過すれば、自分の両親が亡くなった年齢になる。 そう考えると、この先とてつもなく長いわけではない。 人生のゴールを今までより身近に感じ、過去を振り返って嘆くよりも、現在そして未来に向かって歩めるようになりました。 「note」に

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        やってはいけなかった医療①

        • もりちゃん あさがお募金        

        • 今日は中秋の名月。 長期間ステロイドを使っていた森仁はmoon face(満月様顔貌)。 特に幹細胞移植後は著明だった。 月を見ると森ちゃんと対話ができる。 まだ暑い秋の夜。

        • #ありがとう創作大賞 「やってはいけなかった医療」を振り返って

          やってはいけなかった医療⑨

          おわりに 森仁と家族に起きたことを著す。 長年、使命のように思っていたこと。 しかし、いざ書き出してみると「20年も前のことを発信しても意味がないのではないか。」と、何度も挫けそうになりました。 そのような時、広島平和記念資料館で目にした言葉を読み返しました。 原爆投下から80年近くの歳月が経過しても、心にしまい込んでいた悍ましい記憶を表現する生みの苦しみが、見る者の心に届き、犠牲になられた方へ思いを馳せることで戦争を抑止する大きな力となる。 森仁が受けた誤った医療も

          やってはいけなかった医療⑨

          やってはいけなかった医療⑧

          新たなスタート 一連の医療過誤は、B医師個人が問題だったのは間違いない。 しかし、A病院はB医師着任後に小児科病棟内に無菌室を作っていた。 本来ならこの時点で、白血病の治療や移植ができるのか、慎重に検討されなければならなかったはずである。A病院の監督不行き届きは否めない。 そして、A病院はこの医療過誤を院内外ともに公表しなかった。森仁の存在と命は闇に葬られてしまった。 「プロトコール責任者とは相談し決定」 本当に責任者と相談していたのか否か、示談交渉が終結した後も、も

          やってはいけなかった医療⑧

          やってはいけなかった医療⑦

          カルテ開示 入院中から、誤った医療が行われていたことがわかっていたので、どうしてこのようなことが起きてしまったのか真実を知りたいと思い、A病院に対してカルテ開示請求を行った。 2006年4月の休日、静寂に包まれた病院の一室で、カルテをめくりコピー希望のページをチェックしていく。作業を進める中、驚愕の事実を目のあたりにした。 吸引不能 えっ!?唖然とした。 発病時の骨髄採取ができておらず、末梢血(血液)のみで診断されていたのだ。これは、胃がんや乳がんのような固形腫瘍で、

          やってはいけなかった医療⑦

          やってはいけなかった医療⑥

          力強く生きる 意識がない中、この先治療をするかしないかの選択をせまられた。 治療をしなければ、あと数日。 森仁(もりと)にとっては、このままの方が楽なのかもしれない。 3歳で発病し、あれよあれよと狭い個室に拘束され、外に出られないどころか点滴につながれたままのベッド上での生活。 定期的なマルク(骨髄検査)やルンバール(腰椎穿刺)、注射の恐怖。度重なる吐き気や嘔吐、下痢、便秘、熱発、体中の痛み、倦怠感… 3年半以上、制限が多く我慢の生活であったが、人が大好きで壁を作らず

          やってはいけなかった医療⑥

          やってはいけなかった医療⑤

          末梢血幹細胞移植 いよいよ移植準備。8日前から前処置が開始された。 放射線全身照射 2回×3日間。 大人でも長時間同一姿勢を強いられるのは苦痛であるが、6歳の森仁(もりと)は小さな拳をぎゅっと握り、動かないようじっと耐えていた。 その後、大量化学療法。 3歳で治療を開始してから匂いに敏感になっていたが、移植前は更に過敏になりアルコールの匂いで嘔吐。 感染を予防する薬がどうしても内服できない。わずか6歳でも移植に必要な薬ということは十分理解している。寝ても覚めても薬のこと

          やってはいけなかった医療⑤

          やってはいけなかった医療④

          転院 その手紙の内容を、A病院の或る職員が真摯に受け止めて、80Kmほど離れている医大までわざわざ足を運び、「B医師を医局として指導して欲しい。」と直訴してくださった。 その後、どのような動きがあったのかは不明だが、B医師はA病院を退職し、開業する運びとなった。 それにより、その地方で小児がん治療が行われることはなくなり、大学病院への集約化が完全に確立。第二第三の被害者が出るのを防ぐことができた。 転院先の大学病院は明るい。いや、明るく感じた。 白壁に囲まれた監獄のよ

          やってはいけなかった医療④

          やってはいけなかった医療③

          定期入院 2002年10月以降、2週間に一度の治療につき、4~5泊程度の入院が続いた。 入院時には、風邪を引いているわけでもないのに、鼻汁培養検査が毎回行われた。カッラカラに乾いている鼻にチューブを入れて、無理やりサクション(吸引)する。 当然えずいて嘔吐することもあった。医師に尋ねると「どんなばい菌が、どの位いるのか調べる必要があります。」とのことだった。 また、胸部・腹部のレントゲンを毎回撮っていた。発病してから何回撮っただろう。微量とはいえ、放射線被ばくによる白血

          やってはいけなかった医療③

          やってはいけなかった医療②

          あれから 「オレ、死にたくない。だって、みんなに会えなくなるんでしょ。」 そう話していた次男・森仁(もりと)を、2005年11月25日ひとりで旅立たせてしまった。 享年6歳11ヶ月。闘病期間3年10ヶ月。降りかかった運命を小さな身体で受け止めて、どんな時も真っ向から病気と闘っていた。 一生懸命に生き抜いた。それなのに…治してあげることができなかった。 発病から22年、亡くして19年になろうとしている。 しかし、20年前が「ついこの前」のことであり、現実の世界と容易に

          やってはいけなかった医療②