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やってはいけなかった医療②


あれから

「オレ、死にたくない。だって、みんなに会えなくなるんでしょ。」
そう話していた次男・森仁(もりと)を、2005年11月25日ひとりで旅立たせてしまった。

享年6歳11ヶ月。闘病期間3年10ヶ月。降りかかった運命を小さな身体で受け止めて、どんな時も真っ向から病気と闘っていた。

一生懸命に生き抜いた。それなのに…治してあげることができなかった。

発病から22年、亡くして19年になろうとしている。
しかし、20年前が「ついこの前」のことであり、現実の世界と容易に行き来ができる。
そこには、肩を並べてゲームをしたり、公園を駆け回ったり、大声で戦いごっこをしたり…楽しそうに遊ぶ3人の子どもたちがいる。そして、きょうだいの真ん中で、ムードメーカーの森仁の姿が確かに在る。 

発病

2001年年末。その年の6月に三男が生まれ、家族が増えた喜びと幸せを噛み締めていた。
12月生まれの長男と森仁の誕生日を祝い、賑やかで穏やかな年の瀬。
長男と友だちが外へ出ると、森仁は風邪気味だろうが何だろうが、後からついていきポーズをとる。

2001年 大晦日

ぶつけた時にできた頬の青あざは、いつもより消えるまでに時間を要したが、気にも留めていなかった。

2002年元日、熱発。正月の救急外来は2、3時間の待ちが当たり前。それだけでも体力が奪われる。手持ちの薬で様子を見た。
翌日には解熱。そして3日夜に再び熱発。
三が日明けの4日金曜日、近所の個人病院を受診。血液検査を試行したが、結果は週明けとのこと。
そして1月7日、検査結果は明らかに異常値。個人病院からA総合病院を紹介された。

初回のマルク(骨髄検査)を終えた小児科のB医師から、「悪い細胞がパンパンに詰まっていて、なかなか(骨髄が)引けませんでした。」と。血の気が引いた。
個人病院での血液検査の結果は白血球数37,870。週末を挟んだA病院での採血では、105,100まで増えていた。(白血球正常値:3,300~8,600)

「病名は急性リンパ性白血病です。治療は統一されていて、うちの病院は〇〇グループに入っています決して一人の医師の匙加減で治療は行いません。現に治療中の子もいます。どの病院で治療をしても治療法は同じなので、どこで治療を受けるかは家族で相談して下さい。」と、ナースステーションで説明を受けた。

医師の説明・看護記録より

当時、小児白血病は全国に4つの治療研究グループが存在し、それぞれのプロトコール(臨床研究実施計画書)に基づいて、検査・診断・治療が行われていた。

当然、大学病院へ紹介されると思っていたが意表をつかれた。
真冬の夜、外は真っ暗。個室には3歳になったばかりの森仁、背中には空腹で泣き疲れて眠ってしまった生後6ヶ月の三男、家には小学1年生の長男が一人で留守番をしている。

B医師はA病院に勤務する数年前まで、大学病院で小児血液腫瘍を専門としていた。
転院はせずに、A病院に森仁の命を預けてしまった。


入院中は24時間付き添いが必要。森仁の病状もさることながら、きょうだいのことも気がかりだった。
患児と同じようにまだまだ発達途中。親の手を必要としている。

翌日、長男の担任の先生に事情を話すと「おまかせください。今日から先生がお母さんになってあげる!」と、長男に声をかけてくださった。とても有難かった。

三男は、年度途中かつ感染症が流行する時期でもあったため、保育園探しは見送り、3月まで遠方の実家で預かってもらうことにした。

こうして、父と長男、母と森仁、そして遠方に三男、うるさいほど賑やかだった5人家族の散り散り生活が始まった。

治療開始

治療期間は3年
プロトコール(臨床研究実施計画書)のコピーをもらったが、そこには違う人の日程が書き込まれており、説明は一切なかった。

当時からマルク(骨髄検査)ルンバール(腰椎穿刺)は、麻酔を使用し鎮静させて行うのが主流となっていたが、B医師はそのことを知らなかった。

仰向けの森仁を看護師が馬乗りになって押さえつけ、局所麻酔のみで胸骨から骨髄を採取。恐怖で暴れる森仁に対して、B医師は「泣いてもいいから動かないで!」と叱責した。
検査中、看護師に対する怒声を自分が怒られていると思い込み、泣きながら「ごめんなさーい。」と叫ぶこともあった。

地獄絵のような鎮静なき検査は、2~6週間おきに1回、1年4ヶ月も続けられた。心に深く刻まれた恐怖はトラウマとなり、以後麻酔を入れても効果がなく、検査中泣き続け、検査後にやっと眠りにつくような状態が続いた。

抗がん剤投与に関する決定はB医師だけが行っていたが、入院から10日以上回診に来なかった。
他の小児科医師5名は、血液腫瘍疾患の専門外。
その医師たちが交代で回診を行っていたが、抗がん剤以外の薬や処置について質問しても、「詳しくはB先生に聞いてください。」「あとでまとめて説明があると思います。」との返答。コミュニケーションを取ることが難しかった。

また、ナースステーションからは、時折B医師の怒鳴り声が聞こえてきた。

入院して直ぐに不信感が募り、転院した方が良いのではないかとの思いが押し寄せたが、家族と相談の末、そのまま治療を継続することとなった。


2月中旬、寛解が告げられた。
無事抗がん剤が効いて、危険な状態を脱したことを喜んだ。

しかし、それは目視上の結果に過ぎず、遺伝子検査を用いた本来の寛解とは異なることを後に知った。

7月、中心静脈カテーテル(抗がん剤を入れるための管、鎖骨下に挿入)が抜けてしまった。
その後、水痘に罹患。重症化のリスクがあり注意が必要な疾患だが、病棟内に水痘患者が入院しており、明らかに院内感染であった。

幸い水痘は重症化せずに完治し、中心静脈カテーテルを再挿入。しかし、わずか1週間後にまた抜けてしまうという事態になった。挿入部は化膿しておりMRSA(メチシリン耐性黄色ブドウ球菌)に感染していた。
カテーテルは2回とも、外科医ではなくB医師が挿入していた。

B医師はそれらの感染症の治療について「ここの病院だから、この程度で(悪化せずに)済みました。」と、何度か口にしていた。

一連のアクシデントの影響で、3週間治療ができなかった。

この直後に白血病細胞が増加しているが、家族に説明はなかった。(カルテ開示にて判明)

それ以降はカテーテルを挿入せずに、治療の度に看護師が手背(手の甲)の血管を確保していた。「医師に行って欲しい。」と申し出たものの状況は変わらず、誤って動脈に挿入して謝罪を受けたこともあった。

不安が尽きない入院生活だったが、プロトコール上30週の治療まで完了し、9月末一時退院の日を迎えた。






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森仁 morito
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