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やってはいけなかった医療⑥


力強く生きる

意識がない中、この先治療をするかしないかの選択をせまられた。
治療をしなければ、あと数日。
森仁(もりと)にとっては、このままの方が楽なのかもしれない。

3歳で発病し、あれよあれよと狭い個室に拘束され、外に出られないどころか点滴につながれたままのベッド上での生活。
定期的なマルク(骨髄検査)やルンバール(腰椎穿刺)、注射の恐怖。度重なる吐き気や嘔吐、下痢、便秘、熱発、体中の痛み、倦怠感…

3年半以上、制限が多く我慢の生活であったが、人が大好きで壁を作らず、誰とでも仲良くなれる子であった。
一瞬一瞬を懸命に生きていた。
森仁は、家族にたくさんの愛と幸せを届けてくれたし、家族もまた森仁を愛した。

きっと世の親は「代われるものなら代わってあげたい」と思うであろうが、もし母が代わっていたらすぐに闘病を放棄したと断言できる。とにかく過酷以外の何ものでもなかった。
もうこれ以上「頑張って!」なんて、とても言えなかった。

けれども、森仁は朦朧とする意識の中で「薬だけは飲まなくちゃ」、「遠足に行きたい」「遊園地に行きたい」「学校に行きたい」と生きることをあきらめなかった。   

病気の進行がとても早く、通常より弱い治療を行うこととなった。
薬を入れると白血球が激減したが、重症感染や臓器不全などのリスクは常に隣り合わせ。何が起きてもおかしくない状態だった。


やがて意識は回復し、覚醒の時間も長くなり、徐々に学校、家、外出と行動範囲を広げていった。

ある時、お世話になっている医師や看護師の方々にホットケーキをごちそうしたいと要望。学校の先生がすぐに準備を整え、叶えてくださった。
そして、医師と看護師に手紙を書いた。
「のどをなおしてくれてありがとう。」
数日前、虫歯悪化のため口腔内や顔面が腫れ、飲み込む度に激痛が走った。治療へのお礼の気持ちを込めていた。

ショッピングセンターに外出した際には、「病気を治してもらったり、お世話になっているからオレがごちそうする!」と、家族にパフェをごちそうしてくれた。
たくさんの人から親切にしてもらったおかげで、人に何かをしてあげたいという優しい心が育まれていた。

5月に先生・同級生と蒔いたあさがおは、夏には学校の小さな中庭でたくさんの花をつけ、やがて新たな種が実った。
それを持って、幼稚園を訪問し先生方に再会。自分の足で園内を歩いた。そして、友だちの家にも行き、病室で製作したジグソーパズルと共に種を渡した。久しぶりの再会にとても喜んでいた。

寄り添い支え合う あさがお

旅立ち

再々発入院から2ヶ月。小児の訪問診療がなかった当時、10月下旬より1泊ずつ家と病院を交互に行き来する体制を整えてくださった。
1日家で過ごして夜病院に戻る。輸液と輸血を行い、次の日の夜、家に帰る。全面的に協力していただいた。
病院に戻る時はかなり不機嫌。輸血の準備をする医師に向かって「血小板は根性で増やす!」と、到底無理なことを言い切っていた。

公園でコインカーに何度も乗った。「あーストレス解消になった。お母さん、大きくなったらバイク買って!」と。森仁には確かな未来があった。

バイクでストレス解消

11月に入り、左肺に感染、腎臓に感染or浸潤、肝肥大が確認され、治療終了の宣告を受けた。

もう連れて行くことができないであろうと、予約していたホテルをキャンセルしてしまった。
しかし、発熱と胸の痛みがあるのに「行く!」と。既にお昼をまわっていたが、新たに宿泊可能な所を検索。何とか見つかった。
旅館では、当日のギリギリ予約であったにもかかわらず、抱っこで入館する森仁の姿を見て、急遽部屋食に切り替えてくださった。

旅館の食事に満足!

その後も、6年生から聞いていた修学旅行の話を思い出して、どうしても行きたいと。朝から40℃の熱があったが解熱剤で下げて、昼過ぎに新幹線に飛び乗る。修学旅行コースの科学館に向かい、駅で牛タンを食べた。森仁にとっての修学旅行。

牛タン「あつっ!」

勤労感謝の日。楽しみにしていたゲームの発売日。家からトイザらスに向かってゲットし、ムシキングのコインゲームも行った。
そのまま病院に戻り、翌朝早起きして2時間ほどプレイ。肺に水がたまり、寝返りすら打てなくなっている体。時々「起こして」と言いながら、日中はほとんど眠って過ごした。

夕方の回診で「森仁君、今日帰るの?」と医師が尋ねた。森仁は当然外泊できると思っている。「帰るんでしょ?」と確認すると力強く頷いた。

前回の外泊時に、担当看護師が在宅酸素を手配してくださったおかげで、家に連れて帰ることができた。
それでも呼吸が苦しそう。吐き気も止まらない。「病院に戻る?」と聞くと「えっ、もう?」と答えた。森仁は家が大好き。一晩、家で過ごす覚悟を決めた。

21時頃、ハンバーガーを口にした。その後、ますます呼吸は乱れていったが「頑張る、頑張ろう、エイエイオー!」と自分を奮い立たせていた。
意識がクリアだっただけに、苦しみは計り知れない。首をおさえていた。
「森ちゃんはロックマンのオペレーターになるんでしょ。いいオペレーターになれるよ!」「ありがとう。」と最期まで会話を交わした。

日にちが変わって間もなく、愛する森仁は家族の元から苦しみのない世界へ旅立っていった。


幼稚園時代の友だち親子が駆けつけてくれてた。
「間に合わなかったー。」と、糸を通す前のたくさんの折り鶴を棺に入れてくれた。
呼吸苦や痛みから解放され、安らかに眠る森仁の顔に一羽の鶴の折り目が当たり、頬が赤くなった。まだ血が通っているようだった。

コンタクトレンズに涙の塩分が付着し、前が見えなくなった母に代わり、長男は小さな小さなお骨まで丁寧に上げてくれた。

いつでも弟の体調を気にかけて「森仁、大丈夫?」が口癖だった。家族全員のHLA(白血球の型)を調べた時には、「もし、オレと○○(三男)が合ったら、オレがあげるよ。」と言ってくれた。  

転校と同時に森仁が再々発してしまい、慣れない土地で一人で学校に馴染むしかなかった。帰宅後は病院まで面会に行ったり、休日は森仁に合わせて外出したりと、心身を休められる環境ではなかった。
まだまだ親の手を必要とする約4年間、寄り添い手をかけてあげることができなかった。

三男も森仁が大好き。二人でお笑いネタを演じてケラケラ笑っていた。
再発入院後、付き添いを代わって再会する度に、「お母さん(病院に)行く?」「もう帰る?」「また帰ってきてね。」と涙声になっていた。
けれども、家から病院へ戻る時や病院での面会終了時には「バイバイお母さん!」と、いつも笑顔で手を振り、全く手こずらせることがなかった。

葬儀中、もう病院に行く必要がなくなった母に抱っこをせがみ、「泣いてない?」と何度も顔を覗き込んでいた。

長男も三男も、それぞれの立場でよく頑張ってくれた。それなのに、愛する弟であり兄である森仁を助けてあげることができなかった。

この時、長男と三男にこれ以上悲しい思いをさせまいと心に決めた。




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森仁 morito
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