やってはいけなかった医療④
転院
その手紙の内容を、A病院の或る職員が真摯に受け止めて、80Kmほど離れている医大までわざわざ足を運び、「B医師を医局として指導して欲しい。」と直訴してくださった。
その後、どのような動きがあったのかは不明だが、B医師はA病院を退職し、開業する運びとなった。
それにより、その地方で小児がん治療が行われることはなくなり、大学病院への集約化が完全に確立。第二第三の被害者が出るのを防ぐことができた。
転院先の大学病院は明るい。いや、明るく感じた。
白壁に囲まれた監獄のような病室、治療が間違いやしないかとハラハラと気を張って見ていたA病院とは全く違う。
あれほど必死だった情報収集も、がんに効果があるという健康食品も、気付いたらやめていた。
また、研究グループに所属している病院では、MRD(微小残存病変)の検査を試行していたこともわかった。
「森仁(もりと)のような標準的なタイプは、その検査をしない」というのは、B医師の誤った認識だった。
「最初から、大学病院で治療を受ければ良かった。」
「今、病状が落ち着いているんだから良いじゃない。」
相反する思いが、頭の中でぐるぐる巡る。
医師の認識不足により、必要な検査が行われず、再発のリスクが高まったのは、どうにもこうにも収まりがつかなかった。
A病院では治療の度に入院し、きょうだいにも負担をかけていたが、大学病院では吐き気止めや胃薬などの内服薬で副作用を予防し、外来での治療が可能だった。
子どもたち3人の声がにぎやかに飛び交い、皆でご飯を食べ、お風呂に入り、川の字になって寝る。当たり前の穏やかな日常が、極上の幸せであった。
やがて年長組に進級した森仁は、治療により休まなければならない日があったものの、幼稚園行事に全て参加できるまでになっていた。
跳び箱に果敢にチャレンジしていた参観日、汗びっしょりになりながら演奏したオペレッタに合奏、袋が破れそうになるくらい収穫したジャガイモ掘り、初めてのお泊り保育、障害物競争で1位になった運動会。
一つ一つの活動が自信につながり、表情は誇らしげだった。あと半年足らずで卒園、そして小学校入学。
その頃、帯状疱疹ができた。
再発
2004年11月、お遊戯会翌日の定期受診で、まさかの再発が判明。
あと少しで治療期間の3年に達するというところで、ゴールテープは遥かかなたへ遠ざかり、ついに切ることはできなかった。
恐れていたいくつもの「たら・れば」が現実となってしまったのだ。
最初から大学病院で治療をしていたら、研究グループに所属していたら、MRD(微小残存病変)の検査を行い治療を強化していれば…再発せずに済んだかもしれない。
奈落の底に突き落とされ、なかなか現実を受け容れることができなかった。
けれども、目の前の森仁は「プレイルームがあるからいいかっ!」と気持ちを切り替えている。
そのおかげで、背筋が凍りつくような感覚はなく冷静だった。
何せ大学病院は24時間付き添いが必要な上、簡単に家に帰れる距離ではない。森仁・4年生の長男・3歳の三男の入院準備並びにきょうだいの生活を守るために、短期間で調整をしなければならないことが山ほどあった。
入院までの猶予期間、急遽ランドセルを購入。赤好きの森仁は、赤いランドセルが欲しかったようだが、長男に「赤は女だよ。」と教えられ、モスグリーンの森色のランドセルを選んだ。
入院、そして治療開始。
森仁は病棟内の友だちと遊びたいのを我慢して、個室内でゲームやジグソーパズルを行っていた。
「悪い白血球やっつけるのあきらめないから!」と前向きだった。
初発時の弱い治療でなくならなかった白血病細胞はパワーアップして、薬が素直に効くほど従順ではない。
1・2クール目、ほとんど効果が見られなかった。3クール目で白血病細胞をかなり減らせたが、寛解には至らなかった。更に治療を追加したが、期待通りの結果は得られなかった。
がんの治療は何事も命がけである。抗がん剤の副作用で重篤な状態になり、死に至る場合もある。
骨髄移植は強力な抗がん剤を用いてから、新たな細胞を注入する。前処置(放射線全身照射、大量化学療法)から移植、その後生着(提供した細胞が骨髄内で造血する)までの間に感染症に罹患したら、あっという間に命が奪われてしまう。
それに生着しないリスクもある。
再発してから、既に強力な化学療法を何度も行っており、かなりのダメージが加わっている。そこに前処置や移植…身体は耐えられるのだろうか。
突然どうにかなってしまうのがとても怖く、移植に立ち向かう気持ちが萎えていた。
森仁が手の届かないところへ行ってしまったら、
急にいなくなってしまったら、
こわかった、とにかくこわかった。
襲い掛かる不安を受け止めて、医師は「移植は病気そのものの再発でうまくいかないこともあるが、合併症でだめになることも多い。」「森仁君は状態が良い。」とおっしゃった。
白血病治療の最先端をゆく医師からの、経験を積んだ上での言葉が何より信頼できて勇気をいただいた。
その後も、森仁の状態により一喜一憂であったものの、逃げるわけにはいかないと腹をくくった。
HLA(白血球の型)は3歳の三男が完全に一致。母が一座不一致(6個のうちの5個一致)。親が一致する確率はほんのわずか。奇跡に近い好条件だった。
三男がまだ年齢的に小さいことと、非寛解のままの移植となるため、移植後もGVL(ドナーのリンパ球が白血病細胞を攻撃する効果)を期待して、母がドナーとなり末梢血幹細胞移植をすることが決まった。
病気の息子に対して何もできない無力な親が、ドナーになれるのはこの上なく有難いことだった。