歴史ブラザーズ大活躍vol.1趙&足利兄弟
これからこのエッセーでは、中国と日本で活躍した私の知っている有名な兄弟について書こうと思います。さあ、先ずはどのブラザーズから行こうかな?
宋王朝を建国趙ブラザーズ
兄趙 匡胤(ちょうきょういん)と弟趙匡義(きょうぎ)ブラザーズ。この二人、兄弟で宋の皇帝に即位しているという何とも羨ましい兄弟です。
愛すべき皇帝
宋といえば、最近の大河ドラマでも商人キャラが出て来ましたね。平清盛との関係も深いですよね。ちなみに宋は、私がもっとも好きな中国王朝です。なんというか、とにかく明るいんです。明みたいに暗くない。確か中国史上、官吏の給料が一番高かったのが宋だったと記憶しています。それだけ商業が盛んだったし、治安も良かったんだと思います。それはひとえに、建国者である趙 匡胤の人柄そのままを鏡に写したかのようです。彼はいわゆる典型的な「良い人」でした。私が皇帝に仕えるとしたら、断然この人を選びます。
織田信長に人間学やビジネス論を学ぶのも良いですが、この人にも学んだ方が良いような気がします。それだけ魅力あふれる人だし、経済や政治も上手くやった人だと思います。何せ宋王朝の繁栄の礎を築いた人ですから。信長は志半ばで死んじゃいました。その違いは大きいでしょう。趙 匡胤はイメージ的に足利尊氏によく似てますね。兄弟仲が良かったことも似ています。とにかく気前がいい。周囲の人気もバッチリ。
ホントかどうか分かりませんが、彼は寝ている間に皇帝に推戴されたという変わったエピソードがあります。皇帝の服を着せられ、気が付いたらハイ!皇帝(北宋の太祖)の出来上がり、という感じです。酔って寝ていた彼は、きっと夢見心地だったでしょう。この手の話は盛ってある場合が多いので、実際はこんな風ではなかったでしょうが、宋王朝はその始まりから何かワクワクする要素がありました。
宋は後周王朝からの禅譲を受けて成立した王朝です。普通、滅んだ国の君主は干されるか、殺されるか、いずれにしても悲惨な末路を辿ることが多いんですが、匡胤は手厚く後周の恭帝を遇します。(有名な後漢の献帝もそんな感じです)宋は最後まで後周の血統を大切に扱いました。非常に珍しいケースです。それには理由がありました。実は宋王朝には文字通り太祖の秘宝があったのです。後に完顔(ワンヤン)氏の金朝が宋(北宋)の王宮を占拠するまで、その存在は皇帝にしか明かされていなかったそうです。それは一つの石碑でした。そこには太祖の遺訓が記されていたそうです。
「後周の柴氏を末代まで面倒みること」
「言論を理由に官吏や知識人(文官)を殺さないこと」
何んと素晴らしい遺訓でしょう!宋は歴代王朝の中で最も言論による論争が盛んな王朝でした。時には文官が皇帝の意思に反するような言説を述べました。しかし、悪くても彼らは流刑で済みました。命までは取られません。皆が不思議に思ったことでしょう。実はその背景には、太祖の遺訓があったのです。実に賢くて人間味のある皇帝でした。皇帝になったら大抵の人はのぼせ上ってしまうのに、彼は最後まで良い人だったんです。
宋は歴代王朝の中でも武人を粗略に扱った王朝でした。それは文人を大切に扱うという太祖の方針に基づくものでした。三蔵法師で有名な唐代から続く節度使(地方に赴任した軍官)の度重なる反乱を知っていた彼は、武官の力を出来るだけ弱める政策を取りました。最初は上手く行ったのですが、徐々にほころびが出ます。武力の低下した宋朝は、異民族である遼の侵入を度々許します。その後に興った金にも領土を侵され、都であった開封が陥落してしまいます。皇室の残党が南に逃れ、新しく南宋を建国するという悲劇に見舞われてしまいます。この南宋。あの有名なチンギス・カン(日本ではジンギスカンとして有名)に滅ぼされます。
宋の太祖趙 匡胤は私が最も尊敬する中華皇帝です。後漢の光武帝も中々良い感じなんですが、総合的に見て趙 匡胤に軍配を上げたいところです。実に魅力的な人物です。
兄とは好対照?
宋王朝は、先に書いた兄趙 匡胤と弟匡義ブラザーズの「合作」といって良いと思います。兄の匡胤も優れた素質を持っていましたが、弟も兄に負けず劣らず優れた人物でした。文字通り、兄の片腕となって各地を転戦し、宋王朝の建国の礎を築きました。しかし、彼は兄と違って「暗い」面があります。例えば噂の域を出ない話ですが、兄が重体に陥った際、病床にいたのは匡義ただ一人。その後、太祖は崩御。匡義が殺害したのでは?という疑惑も拭えない…。太祖は大酒飲みだったようなので、肝硬変か糖尿病か、その辺りで身まかったと思いますが、さてその真実やいかに?
また、太祖が崩御した際は、二人の息子は既に成人していました。しかしどういうわけか彼らではなく弟の匡義が即位します。(宋の太宗)その実力は誰もが認めるところで、宋の建国は兄弟の合作だ、と周囲も思っていたんでしょうね。彼以外の人間が太祖の偉業を継ぐことは無理だろうと判断したんでしょう。しかし太宗の即位については、疑問が拭えなかったようで、当時から様々な書物で疑惑が検証されています。まあ、結局闇の中ですけどね。
太祖の二人の息子の最期はというと、一人は病死、一人は自殺という末路を辿ります。これも何だか暗い話ですね。また兄嫁である先の皇后の喪に服さなかったとか、改元を太祖の崩御と共にしてしまった(普通は年が変わってから)ことなど、太宗には首をかしげる行動が目立ちます。しかし皇帝としての太宗は名君だったようで、宋が遼や金の侵攻を受けるまでの間反映することが出来たのは、この太宗の治世よろしきを得たからだと言われています。身内には厳しい太宗も、民百姓には優しかったのかも知れませんね。
中国史をもっと知って欲しい!
日本人にとって中国史というと、原 泰久の「キングダム」でお馴染みの春秋戦国時代。本宮ひろ志の「赤龍王」でお馴染みの楚漢の戦い。歴史ゲームで私も大好き「三国志」が定番ですが、今日取り上げた趙 匡胤も、始皇帝や劉邦、諸葛亮に負けず劣らず魅力溢れる人物です。馴染みの歴史を繰り返し楽しむのも良いですが、たまには歴史のポケットを広げてみるのも良いものですよ。あなたもきっと、趙 匡胤の魅力に気づく一人になるでしょう。
足利兄弟と比べてみると?
我が国の足利兄弟と比べてみましょう。兄の尊氏は誰にでも好かれるキップの良い人気者。対して弟直義は生真面目なリアリスト。兄が理想を求めてフラフラするのを、弟が現実路線へ引き戻す。兄は腕っぷしが強く、弟は頭の回転が速く、内政を任せるに不足なし。室町幕府はこのコンビあればこそ出来上がったのだろうと思います。しかし建国後は違った様相を見せますね。高師直を巡る三角関係?のモツレから、建国早々内乱が勃発します。収まったかと思ったら今度は国を巻き込んでの兄弟喧嘩。庶民にとっては実に迷惑な話です。収束するのは3代義満の登場を待たねばなりませんでした。直義が暗殺されたのかどうかは分かりませんが、兄弟仲の良かった二人が、最終的に哀れな結末を迎えなければならなかったことは、さぞや無念だったでしょう。
宋はその点、太祖の崩御を始め、宋王室の中ではドタバタしていましたが、王朝自体は実に安定しており、庶民に至るまで我が世の春を味わっていました。弟の格の違いといったところでしょうか。
偉い兄弟の仲は…
有名な曹操の息子、曹植が作ったとされる七歩の詩にこうあります。
「本是同根より生ずるに 相煎ること何ぞ太だ急なる」
「元々同じ腹から生まれたのに、なんでこんなに差が出るの?」
曹植はそう言って兄の曹丕(魏の文帝)の栄達を嘆いたと言います。もとよりこの話はフィクションですが、皇帝に即位した兄を持つ弟の心境は、そんなもんだったんでしょうね。
今回取り上げた2人の弟も、実は内心栄達する兄にコンプレックスを抱いていたんじゃないんでしょうか?だから趙匡義は兄が死ぬのを待って野望を遂げ、直義は我慢ならずに生前からやり合ってしまった。兄弟ともが有能だと、一見良さそうなものですが、そんなこともないんでしょうね。
皆さんの兄弟仲はどうですか?
おしまい