意味の事後性 意味のあるなしは事前にはわからない?
「これって覚えて意味あるん?」
教育の世界に身を置いていて、生徒に聞かれることランキングでベスト3に入るであろうフレーズです。
これを言われて返答に困る先生は多いのではないでしょうか。
上手いこと言いくるめるか、理由を懇々と説明するか、「やらなあかんもんはやらなあかんねん!屁理屈言うな!」と勢いで押し通すか。
きっとこれらのどれかでしょう。
なぜこのような質問が生まれるか。
そしてなぜそれに大人は答えられないのか。
それは、僕らは基本的に「交換の原理」の世界にいて物事を考えているからです。
僕のバイブル漫画の1つである「鋼の錬金術師」通称「ハガレン」にはこんなお決まりのフレーズがあります。
「等価交換だ」
無から有は生まれない。
何かを欲するならば、何かを差し出す必要がある。
当たり前のことかもしれません。
これが「交換の原理」ですね。
何も漫画の話を引っ張り出さなくとも、僕たちの日常生活においても、
何か商品が欲しければ、サービスを受けたければ、お金を払う。
お金とモノやサービスを交換する。
日々当然のこととしてやっている行為ですね。
しかし、一度この「交換の原理」に慣れきってしまうと、浸ってしまうと、
意味や価値が無い(ように見える)ものに極端に不寛容になってしまいます。
こんなんやって何の意味があるん?
それに価値はあるんですか?
という意味/価値の有無を基準に物事を考えることに傾倒してしまうと、
途端に意味/価値の無いものは不要なものに成り下がります。
このことのいったい何がいけないのか。
物事の意味の有る無しであらゆることを考えるようになってしまうと、
それを人間、他者と自分にも当てはめてしまうようになります。
そうすると、今の世の中で有用、有利とされる能力を備えた人は文字通り「人材」として評価され、まるで商品の値札を貼るかのように「値踏み」されてしまいます。
そして、その時代にとって、社会にとって評価されえない、つまり「意味のない」とされる人は「要らないもの」とされる。
僕たちはこの世の中にあふれる商品を「要るもの/要らないもの」のフィルターにかけて買う/買わないの判断を下しますが、
それと同時に僕たち自身もそのマーケットに放り出され、
能力を、マーケットにとっての有用性の度合いに基づいて売買されているのです。
僕らはモノを消費するだけでなく消費されている。
消費する主体でありながら消費される対象でもあるわけです。
そうすると、クラスやご近所、会社などで、
あいつは「何円くらいの価値がある?」と互いに監視し合いながら生きることになります。
これが、意味や価値への偏重の弊害です。
もちろん、意味の場があるからこそ思考が生まれるわけで、
意味にも意味はあります。
しかし「こんな勉強やって意味あるの?」という質問の根本的な矛盾は、もっと他のところにあります。
それは「意味の事後性」です。
「意味」は後からでしか存在を認知できません。
「あの練習があったから試合に勝てたんだ」
「あの先生の言葉の意味が大人になってわかっ
た」
などと言ったように、あくまで意味がわかるのは過去形です。
逆に現在の時制から考えてみると、
「きっと意味があるよ」
「大人になったら意味がわかるはず」
と言ったように、
未来に起こる不確定な事象を指して言及することが多くなります。
こうも言うことができます。
意味はどの時制においても永遠に存在しているけれど、認知可能なのは未来においてのみで、
表現は必ず過去形になる。
意味がわかった。
意味があった。
というように。
つまりは、事前に意味があるかどうかなんて、知りようが無いのです。
意味というものの性質上そうなのです。
先ほど「意味/価値が無い(ように見える)もの」と括弧を付けた理由はここにあります。
そして、冒頭の「こんなの覚えて意味あるの?」と言う生徒への答えは
「わからない」となるでしょう。
子どもの頃から、現代に生きる僕たちは交換の原理に染まりきっています。
なので、何らかの自分の労力や時間、そして体がその場(多くは学校の教室)に拘束されることによって、何らかの報酬を求めてしまう。
自分は代償を払ったのだから、報酬があって然るべきだという考えになってしまう。
なので、先生に対して「意味のある」授業を求めてしまうし、それが当たり前であり、親や大人もそれが当たり前と思ってしまう。
生徒も保護者も先生もみな消費社会に生きる消費者兼被消費者であるので、
みなが相互にパノプティコン的に監視し合い、値踏みをし合っているので、
当然精神的に摩耗していき、それによりいじめなどが生まれる。
意味に縛られることからの解放、そして交換の原理への傾倒を防ぐための手立てはどこにあるのでしょうか。
やはり資本主義に取って代わるものを、作り出すしか無いのでしょうか…。
今回は大風呂敷を広げ、畳むことすらできずに終わりますが、
この記事が意味があるものなのかも、今はまだわかりません。
ハガレンのエルリック兄弟は、物語のクライマックスにおいて、
「等価交換を超える方程式」の仮説を立て、それを証明するために旅へ出ます。
「誰かに何かをもらったら、そのまま返すのではなく、1つ加えて次に回す。10貰ったら11返す。」
という仮説です。
いわゆる交換ではなく「贈与」。
恩返しではなく「恩送り」の考え方です。
交換の原理、意味の絶対性から僕たちが解放されるか否かは、
エルリック兄弟の旅の成果にかかっているのかもしれません。
小野トロ
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