8.わたしたちの一冊、彼女だけの一生:「好きなページはありますか。」ショートストーリー集
そんな不気味なまでに丁寧な文章で始まる手紙を受け取ったのは、今から6年前の冬だった。冬がいっそう深まるちょうどこの頃、1月の終わりだ。
実際のところその手紙は、かなり不気味だった。わたしが喫茶「ロンリイ」で時間働きをしていたのは手紙を受け取る10年以上も前のことで、たしかにお店でわたしに声をかけてくる男の人はたくさんいたけれど(手紙とか、寮の電話番号とか、いろんな贈り物とかをもらったっけ)、お店を離れてもなお間柄が続いた人はいなかった。
でも、冒頭に続く文章を読んでわたしはとても懐かしい気持ちになることができた。たった一文で、たった一瞬で、その不気味な手紙は「今もらうべき」運命的な一通に変身した。
本当に失礼しちゃう。けれど、彼のぬくもりが刹那連鎖でわたしにまで入り込んでくる手紙だった。どうやってわたしの実家の住所を知ったのかとか(ロンリイのおかみさんに訊いたらしい)、なぜ今更とか、そんな気持ちが散りゆく雲のように晴れていって、ただもう一度…できれば何度か、顔を見てみたいと願わせるような力がある手紙だった。
今もすぐ近くにいる彼の顔はもちろんそんなに大した顔じゃあないんだけれど。現代風に言えばもっくんとか、藤井フミヤ君みたいに綺麗な顔の人に若い頃は憧れたけれど、実際近くにそんな顔の男の人がいたら毎日気が休まらないものね。
手紙をもらってから6年間。飛ぶように過ぎていった6年間。一度も「愛しているよ」なんて言われたことはないし、わたしからもはっきりとは口にしたことがない。けれどこの人は「文子さんと一緒になれて幸せです」と毎日毎日、幸せ狂いみたいに言い続けてきた。
結婚式でのスピーチでのことだった。彼は「文子さんと結婚して、僕は世界一幸せになります」と言った。
彼の友人や上司はみんな苦笑い。「幸せに『します』やろ!」と、会場からは大きな笑いが起こった。もしかしたら、ちょっと怒っている人もいたかもしれない。
わたしは彼の左に立ち、彼の背中をたたきながら笑った。わたしの性格を知っているみんなは「しゃきっとせんね!」とか「もう恥ずかしか!」とか、そんな言葉をかけていたと思っていたかもしれない。
でもあのとき、わたしはただ「ありがとう」と言った。
本当に、あの手紙を受け取って良かった。あの本が、あの日あの時彼のテーブルの上にあって良かった。
わたし達がこうして人生のページを一緒に増やしていくことができるのは、たった一冊のあの本のおかげなんだ。
「好きなページはありますか」
わたしが彼にかけたこの言葉に、存在してくれてありがとうと伝えたい。
保志さん、わたしも幸せですよ。
***
「ふぅちゃん、お部屋かたづけなさい」
名前を似せると、性格まで似てしまうのだろうか。わたしの名前は「文子」で、娘の名は「風美」。娘はもう4歳になったのだけれど、部屋の片付けをしなくても平気なところがわたしによく似ている。
「あとで〜!」
「ちょっと、お風呂場には夜しか入らんとよって言いよろうが!」
また怒鳴ってしまった。午前中だというのに、もう今日何度目なのかわからない。
怒鳴ろうが喚こうが子どもはやりたいことをやるばかりなのだからしようがないとわかっている。だいたい「後で」はわたしの口癖でもあるし、どうも風美もそれを判って言っているようだから、なんとも注意しづらい。
怒鳴らないようにしよう、怒鳴らないようにしようと意識づけを始めて子育て4年目、毎日声が枯れそうなくらいに声を張り上げている。どこで「怒鳴らない母親」に変貌すればいいかなんてわからない。来る日も来る日も、どうしようもない無力感がある。
「どんげした?元気やの、えらい」
保志さんが二階から降りてくる。土曜日で家に居られる日は珍しいけれど、これでも福岡の教員勤め時代よりはかなりマシになった。
結婚を決意してすぐに風美がお腹にいるとわかってから、保志さんは言った。
「宮崎に住もう、私のふるさとだ」
あまり決断を率先することのない彼が、珍しく譲らない姿勢を見せた出来事だった。福岡を出たことがなかったわたしだったけれど「風美には太平洋の海をみて育ってほしいんだ」と言う保志さんの目の色があまりにまっすぐに確かな将来を見据えている気がして、わたしには何の反論をもつ気持ちも芽生えなかった。
「暖かそうやし、わたしも嬉しいな。『フェニックス・ハネムーン』」
「ん、なんやっけそれ?」
「やだ、宮崎出身って嘘っちゃないと?デューク・エイセス」
「あぁ、もうブームは過ぎたけんさ…」
過ぎ去りし故郷の賑わいを喜ぶでも悲しむでもない彼の目は、過去ではなく未来に向いていた。
「はい、トンチャン」
むかしのことを回顧していたら、いつの間にか風美が父に何かを持ってきていた。彼女は父のことを「トンチャン」と呼ぶ。
本だ。
本だけれど、風美が読む絵本ではない。どうやら保志さんの書斎部屋から勝手に持ち出したらしく、古い小説のようだった。
わたしはその本の表紙を見てハッとした。
「風美、勝手にお父さんのお部屋に入ったらいかんって言うとるやろ。それにその本、まだ風美には難しいでしょう」
「ふぅちゃん、これしたかったの。ずっとしたかったの」
どうせ見たこともないだろう本をさもずっと読みたかったみたいに言うから、子どもはわからない。何より、その本は保志さんとわたしを結びつけた一冊なのだ。破られたりしたら、とんでもない。
「返しなさい、風美!」
怒鳴るのは今日何度目だったっけ。娘は本を胸に引き寄せ抱える。かぼそい腕の隙間から『変身記』のタイトルがのぞいている。
「ふぅちゃん、この本が読みたいの?どうして読みたいのか教えてくれる?」
保志さんが、小さな風美の前にすっと目線を合わせて向き直った。娘も彼を見つめて、お互いに話を聞く体制になっている。
「ふぅちゃんね、トンチャンがこのご本だいじだいじしてるのみてたの、だからねふぅちゃんもね、だいじしたいの」
早口で娘が説明するのに対して「へぇ、見てくれてたんだ。ふぅちゃんはよく知ってるね」と返す保志さんは、さすが元教師といった風格だ。普段頼りにならないけれど、たまにこうして存在感が増すことがある。
「じゃあ居間で読もうか。トンチャンも読みたいから、一緒に読ませてね」
「大丈夫?その本・・・なにか代わりの絵本を持ってこようか?」
「いや、いいよ。風美が今この本を選んだのには意味があるんだろう。歳は関係ないさ」
きっぱり。
「なんよそれ、元教師のカンってやつ?」
「元教師か。ははは」
風美に手を引かれながら、保志さんはふと立ち止まった。「元教師」という言葉の在処を探るかのように、戸建住宅の居間に向かう廊下を彼の視線が泳いでいた。
「教師かどうかなんて、なんにも関係ないんやと思う」
そうだよね、わかってる。
「でも、教師をやっていたから教えてもらうことができた。福岡の寒い寒い夜。ストーブの火にあたりながら教わったとよ」
「すごくいい先生がおったんやね」
「うん、すごく良い『先生』やった。彼女が教えてくれたことのおかげで、今こうして一緒に暮らすことができとる」
「トンチャン、はやく」
保志さんが言ったことの真意をまだ聞けてなかったけれど、そんなに素晴らしい先生のことだったらいつかまた話す日が来るだろうと思った。風美は、絶大な信頼の目で夫を見ている。わたしには向けられたことのない目だ。
いざというとき、保志さんの態度ははっきりと明瞭でくっきりと剛毅果断だ。
「12年も待たせたくせにさ」
わたしはそう独りごちながら、昼食の支度にかかった。
『変身記』の出だしだ。わたし達が何度も読み交わした『変身記』。まだ難しいだろうと思いきや、意外と娘は真剣そうに聞き入っているみたいだ。
「歳は関係ないさ」
保志さんの言葉が、二人の背中でぐんと説得力を帯びる。子どもって、わからない。わたしたち大人がかかえる様々な桎梏を、彼女たちは平気な顔して抜け出ていく。
そして、人生もわからない。
たった一冊の本で、人生が変わっちゃうことだってあるのだから。
「12年、待っててよかったな」
二人の背中にそうつぶやきながら、わたしは家の中に響く物語の一部になる。
トン、トン、トン。トン、トン、トン。
昼食のためのピーマンを刻みながら、自ら生み出すそのリズムを聞きながら、わたしの物語も悪くないなと顔がほころぶ。
トン、トン、トン。トン、トン、トン。
明日からは、いやできれば今日の夕方くらいから、風美がすることをもっと信じてあげよう。「ダメ」の前に「どんなことしたいの?」って聞いてあげよう。
彼女が彼女だけの一生を自分で生きていけるように。