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本能寺の変1852 その一因 2(1)光秀の素性3 そ第158話⑥ 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

その一因 2(1)光秀の素性3 そ第158話⑥ 

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→【シリーズ】
 信長の甲斐侵攻 光秀と長宗我部元親 本能寺への道  
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 そ=その一因 テ=テーマ別
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そ第158話⑥

 【参照】 ←◎第158話 ←第158話
 【参照】 2光秀の年齢と嫡男光慶 ← (1)光秀の素性 ←
   1素性  そ第53話 そ第54話① そ第54話② そ第54話③
   2争乱  そ第155話① そ第155話②
   
3下剋上 そ第156話① そ第156話② そ第157話① そ第157話②
  
      そ第158話① そ第158話② そ第158話③ そ第158話④
        
そ第158話⑤ そ第158話⑥ そ第158話⑦ そ第158話⑧
        そ第158話⑨

道三の下剋上4 大うつけ 2/5

 信秀は、美濃へ出陣した。
 同年(天文十七年)、十一月。
 信秀は、再び、美濃へ攻め入った。
 大垣城の後詰として。
 稲葉山(井ノ口)城に、攻め寄せる姿勢を見せた。

  霜月上旬、大柿の城、近々と取り寄せ、
  斎藤山城道三、攻め寄するの由、注進切々なり。

  其の儀においては、打ち立つべきの由にて、
  霜月十七日、
  織田備後守殿、後巻として、又、憑み勢をさせられ、
  木曾川・飛騨川の大河、舟渡しを、こさせられ、
  美濃国へ御乱入、
  竹が鼻に放火侯て、あかなべ(茜部)口へ御働き侯て、
  所々に、烟(けむり)を揚げられ侯間、

 道三は、大垣攻めより引き返した。
 
攻撃、中断。
 急ぎ、稲葉山へ。

  
道三、仰天致し、
  虎口を甘(くつろ)げ、井の口居城へ引き入るなり。

  か様に、程なく備後守、軽々と御発足、
  御手柄、申すばかりなき次第なり。

 道三は、清州織田氏と手を結んだ。
 
清州勢が、道三に呼応。
 古渡城を攻めた。 

  霜月廿日、此の留守に、尾州の内清洲衆、
  備後守殿古渡新城へ人数を出だし、
  町口放火侯て、御敵の色を立てられ侯。

 信秀は、撤退を余儀なくされた。
 急ぎ、帰城。
 今度は、清州織田氏と戦争状態に突入した。

  此の如く侯間、備後守御帰陣なり。
  是れより、鉾楯に及び侯ひき。

 信秀は、窮地に追い込まれた。
 道三のみならず。
 清洲までもが、・・・・・。

 そして、今川義元。

 信秀は、清洲織田氏との和睦を画策した。
 交渉役は、平手政秀。

  平手中務丞、
  清洲のおとな衆、坂井大膳・坂井甚助・河尻与一とてこれあり。
  此の衆へ、無事(和睦)の異見、数通侯へども、

 なれど、調はず。
 「失敗」
  
  
平手扱ひ、相調(ととの)はず。
                     
【重史060】(『信長公記』)

 【参照】12光秀と斎藤道三 4大うつけ  小 86 87 88 89
 【参照】12光秀と斎藤道三 4大うつけ  小 第87話



 ⇒ 次へつづく



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