本能寺の変1582 その一因 一、光秀の年齢 そ第78話⑯ 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』
その一因 一、光秀の年齢 そ第78話⑯
2光秀の年齢 6人格形成
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そ第78話⑯ 六月一日 出陣
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【参照】その一因 一、光秀の年齢 2光秀の年齢 6人格形成
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そ第78話⑬ そ第78話⑭ そ第78話⑮
六月一日
中国出陣の日。
これが最後のチャンス!!
全ては、計画通り。
明智の軍勢が、集結していた。
総勢、一万三千という。
一つの町・村に相当する数。
それが、丸々、移動するわけである。
しかも、長期戦。
となれば、兵站に関わる人・馬等もかなりの数になっただろう。
おそらく、雑踏状態。
亀山は、兵士たちで、溢れ返っていた。
これが、出陣前。
光秀は、行動を開始した。
頼りとするのは、己のみ。
光秀は、出来る男。
万事につき、抜かりはない。
計画は、緻密だった。
光秀は、出陣を命じた。
「三草越え」は、山中の、細い一本道 (現国道372号) 。
何しろ、大軍勢。
全軍の通過には、かなり多くの時間を要す。
なれど、急ぎの軍旅に、あらず。
時間的には、余裕があった。
明智軍は、幾隊(組)かで、編成されていた。
おそらく、光秀は、それらを、うまく利用した。
すなわち、「時間稼ぎ」。
先ずは、一隊・・・・・。
「出陣」
隊列の順序・人数・軍容、兵か荷駄か等々については、よくわからない。
また、時刻についても、同じである。
早朝なのか、それとも、午前か、昼か、午後なのか。
如何様にも、調整出来ただろう。
何れにしても、夜に入ってから、それらを引き戻している。
「爰(ここ)を引き返し」 →【重史 017】(『信長公記』)
信長は、猜疑心が強い。
常に、目が、光っていた。
光秀は、そのことを、よく知っていた。
それ故、報告には、特に、気を遣っていた。
光秀は、報告の仕方が上手だった。
信長は、これに、大いに満足していた (①②) 。
①「細川家文書」
天正二年1574七月二十九日付「明智光秀宛て織田信長黒印状」。
この時、信長は、伊勢長島の一向一揆を攻撃していた。
光秀は、石山本願寺の攻囲軍の中にいた。
先書の返事、廿七の日付、今日、披見候、
切々、▢▢(長い)、寔(まこと)に、寄(奇)特に候、
次、南方(みなみかた=大坂)の趣、
書中、具(つぶさ)に候へば、見る心地に候、
【重史044】(「細川家文書」)
②『信長公記』
天正七年1579八月九日条、丹波黒井城攻めの場面。
八月九日、赤井悪右衛門楯籠り侯黒井へ取り懸け、
推し詰め侯ところに、人数を出だし侯。
則ち、噇(どう)と付け入りに、外くるは(郭)まで込み入り、
随分の者、十余人討ち取るところ、種々、降参侯て、退出。
光秀は、信長に、戦況を逐一・詳細に報告していた。
惟任、右の趣、一々、注進申し上げられ、
信長は、光秀に感状を与えた。
永々、丹波に在国侯て、粉骨の度々の高名、名誉も比類なきの旨、
忝くも御感状くだしなされ、
都鄙(とひ)の面目、これに過ぐべからず。
【重史045】(『信長公記』)
①も、②も、信長の「命」による出陣。
信長は、多忙をきわめていた。
光秀は、その進行状況等について、信長が、掌握しやすいように、
配慮しつつ、わかり易く、かつ、詳細に、「報告」していた。
これが、光秀の常だった、のである。
となれば、中国出陣についても、それは、同じ。
光秀は、信長へ、出陣を報せた。
いつもの通りに、・・・・・。
おそらく、そうだったのではないか。
だとすれば、・・・・・。
結果として、
光秀は、信長を騙したことになり。
信長は、光秀に、騙されたことになる。
「是非に及ばずと、上意候」 【重史043】『信長公記』
⇒ 次へつづく
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