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本能寺の変1852 その一因 一、光秀の年齢 そ小77 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

その一因 一、光秀の年齢 そ小77 

2光秀の年齢 5結論 

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→【シリーズ】信長の甲斐侵攻 光秀と長宗我部元親 
見えてきたもの 目次大 目次中 +240607 
【 重要史料 】 【 人物 】  
*◎=重要ヶ所 P=重要Point ✓=チェック済 
 そ=その一因 テ=テーマ別
*加筆修正 

そ小77 そ第77話

 【参照】 ←テ第77話  ←◎第77話 ←第77話

 「当代記」には、六十七歳とある。      【 重史 023】「当代記」

 結論として。
 下限は、五十五歳ぐらい。 
 上限は、六十三歳ぐらい。
 光秀の生年は、大永四1524±四年ぐらい。
 光秀の年齢は、五十九±四歳ぐらい。
 
光秀は、1520年代~1582年を生きた人である。

 光秀には、やらねばならぬことがあった。
 残された時間は、少ない。
 
このことが、先を急がせた。

 そこに、中国出陣命令が出た。
 
最後のチャンス。

 そして、信長が、上洛した。
 
この時、信忠も、京に居た。
 父子二人が、揃った。
 供廻りは、少ない。
 これすなわち、信長の「油断」。

 光秀は、それを見逃さなかった。

 天正十年1582、六月二日未明。
 「本能寺の変」



 ⇒ 次へつづく


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