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本能寺の変1582 【 重史 40 】 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

【 重史 040】 『日本史』 

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→【シリーズ】信長の甲斐侵攻 光秀と長宗我部元親 
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【 人物 】 
*加筆修正 

【 重史 040】 そ第78話⑥

①その盛大な招宴の接待役を彼(光秀)に下命した。

②これらの催し事の準備について、

③信長は、ある密室において、明智と語っていた

④反対意見を言われることに堪えられない性質であったので、

⑤信長は、立ち上がり、怒りを込め、一度か二度、

 明智を足蹴にした

                       『日本史』

 天正十年1582、五月。 
 信長は、光秀に、接待役を命じた。

  ところで、信長は、奇妙なばかりに親しく彼(光秀)を用いたが、
  このたびは、その権力と地位をいっそう誇示すべく、
  三河の国主(徳川家康)と、甲斐国の主将たちのために饗宴を催すことを
  決め、
  その盛大な招宴の接待役を彼(光秀)に下命した。

 ここで、事件が起きた。
 「密室」、とある。
 
  これらの催し事の準備について、
  信長は、ある密室において、明智と語っていたが、

 信長は、絶対専制君主。
 きわめて、誇り高い男。
 そのことを、他の、誰よりも、よく、知っていたのが光秀だった。
 佐久間信盛を見よ!!
 「朝倉破軍の刻」
 信盛は、それを軽んじた故、粛清された◎第12話 (『信長公記』) 。

  元来、逆上しやすく、自らの命令に対して反対意見を言われることに堪
  えられない性質であったので、

 フロイスは、イエズス会の宣教師【 人物 】◎第7話
 信長の身近に、同会の関係者がいたということだろう。
 黒奴「弥助」、なのかもしれない・・・・・ (「松平家忠日記」) 。  
 彼は、「本能寺の変」を生き延びた。 

  人々が語るところによれば、

 だが、光秀は、甘かった。
 否、そうする他、道はなかった。
 これまでの、御奉公に免じて、・・・・・。
 否、それが、「油断」。
 と、いうことなのだろう。

  彼の好みに合わぬ要件で、明智が言葉を返すと、

 その一言が、・・・・・。
 信長の逆鱗に触れた。

  信長は、立ち上がり、怒りを込め、一度か二度、明智を足蹴にしたとい
  うことである。
                            (『日本史』)
                         →【 重史 041】

 【引用】そ第78話⑥



 ⇒ 次へつづく

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