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本能寺の変 1852 その一因 2(1)光秀の素性3 そ第158話⑧ 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

その一因 2(1)光秀の素性3 そ第158話⑧ 

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 信長の甲斐侵攻 光秀と長宗我部元親 本能寺への道  
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 そ=その一因 テ=テーマ別
*加筆修正 

そ第158話⑧

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   1素性  そ第53話 そ第54話① そ第54話② そ第54話③
   2争乱  そ第155話① そ第155話②
   
3下剋上 そ第156話① そ第156話② そ第157話① そ第157話②
  
      そ第158話① そ第158話② そ第158話③ そ第158話④
        
そ第158話⑤ そ第158話⑥ そ第158話⑦ そ第158話⑧
        そ第158話⑨

道三の下剋上4 大うつけ 4/5

 信長の青春時代。
 結婚した頃の信長である。

  信長、十六、七、八までは、別の御遊びは御座なし。
  馬を朝夕、御稽古、
  又、三月より九月までは、川に入り、水練の御達者なり。

  其の折節、竹鎗(やり)にて扣(たた)き合ひを御覧じ、
  兎角、鎗は、みじかく候ては悪しく侯はんと仰せられ候て、
  三間柄(え)、三間々中柄などにさせられ、

 身なり、風体。

  
其の比(ころ)の御形儀(ぎょうぎ)、
  明衣(ゆかたびら)の袖をはづし、半袴、
  ひうち袋、色々余多(あまた)付けさせられ、
  御髪は、ちやせん(茶筅)に、くれなゐ(紅)糸・もゑぎ(萌黄)糸にて、
  巻き立て、ゆわせられ、
  大刀、朱ざやをささせられ、悉(ことごと)く、朱武者に仰せ付けられ、

 内に秘めた思いが、あったのだろう。
 日夜、弓・鉄砲・兵法・鷹狩など戦稽古に明け暮れていた。

  市川大介、めしよせられ、御弓御稽古。
  橋本一巴を師匠として、鉄炮御稽古。
  平田三位、不断、召し寄せられ、兵法御稽古。
  御鷹野等なり。

 信長は、大うつけと言われていた。
 映画に出てくる有名な部分である。
 異端児だったのだろう。

  爰(ここ)に、見悪(みにく)き事あり。

  町を御通りの時、人目をも御憚(はばか)りなく、
  くり・柿は、申すに及ばず、瓜をかぶりくひ(食)になされ、
  町中にて、立ちながら、餅をほおばり、
  人により懸かり、人の肩につらさがりてより外は、
  御ありき(歩く)なく侯。

  其の比(ころ)は、世間、公道(礼儀作法をきちんとすること)なる
  折節にて候間、

  大うつ気とより外に申さず候。
                      【重史062】(『信長公記』)

 【参照】12光秀と斎藤道三 4大うつけ  小 86 87 88 89
 【参照】12光秀と斎藤道三 4大うつけ  小 第88話

 信秀は、末盛城へ移った。
 同年(天文十八年)、秋。
 おそらく、この頃だろう。
 信秀は、新たに末盛城を築いた(愛知県名古屋市千種区城山町2丁目)。
 自らは、そこへ入る。

  一、去る程に、備後殿、古渡の城破却され、
    末盛と云う所へ山城をこしらへ、御居城なり。
                          (『信長公記』)

 信秀は、今川義元を警戒していた。
 末盛城は、古渡城の東方一里半(6km)の位置にある。
 義元の進出に備えた。

 信秀が、病床についた。
 勢力に、翳りが見えていた。
 その上、病。
 正に、「弱り目に、祟り目」。
 そして、信長は、まだ若い。

 信長が、政務の一部を代行した。
 この頃からである。
 信長の前途には、大きな波乱が待ち受けていた。

 【参照】12光秀と斎藤道三 4大うつけ  小 86 87 88 89
 【参照】12光秀と斎藤道三 4大うつけ  小 第88話



 ⇒ 次へつづく

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