本能寺の変1852 その一因 2(1)光秀の素性3 そ第158話⑩ 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』
その一因 2(1)光秀の素性3 そ第158話⑩
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そ第158話⑩
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1素性 そ第53話 そ第54話① そ第54話② そ第54話③
2争乱 そ第155話① そ第155話②
3下剋上 そ第156話① そ第156話② そ第157話① そ第157話②
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そ第158話⑨ そ第158話⑩ そ第158話⑪
道三の下剋上5 頼芸追放
天文十九年1550
信長、十七歳。
光秀、二十七±四歳ぐらいの年。
この頃、鉄砲が普及し始めていた。
量産体制が、整いつつあった時期。
まだまだ、高価だったものと思う。
同、七月。
京である。
細川晴元軍と三好軍の間に、市街戦があった。
この戦いで、鉄炮による戦死者が初めて記録された。
十四日、丙午(ひのえうま)、天晴、天一天上、
三好人数、東へ打ち出で、見物、
禁裏築地の上、
九つ過ぎ時分迄、各(おのおの)、見物、
筑前守(三好長慶)は、山崎に残ると云々、
同名日向守・きう(弓)介・十河民部太夫(一存)以下
都合一万八千と云々、
一条より五条に至り取り出で、
細川右京兆人数、足軽百人計(ばか)り出合わせ、野伏これ有り、
きう介与力一人、鉄━(鉄炮)に当たり死すと云々、
【重史066】(「言継卿記」)
【参照】12 光秀と斎藤道三 5光秀の三十代 小 第90話
【参照】そ第157話② 第83話 『鉄炮記』
美濃の守護は、土岐頼芸だった。
同年、十月。
頼芸は、まだ守護の座にあった。
室町幕府は、美濃の土岐頼芸に、来正月の垸飯(おうばん=饗応)のため、
要脚(=費用)を命じた。
この時点で、幕府は、頼芸を美濃の国主と認識していた。
十日、幕府、美濃土岐某ヲシテ、明年ノ垸飯要脚ヲ進メシム、
(「史料綜覧」)
斎藤道三が、頼芸を追放した。
その、直後のことなのだろう。
同十月~十一月初め頃。
道三は、頼芸を美濃から追放した。
父土岐頼藝公、大桑(おおが)に御座侯を、
家老の者どもに属託をとらせ(仕事を頼んで任せること)、
大桑を追ひ出し侯。
頼芸は、尾張の織田信秀を頼った。
それより、土岐殿は、尾州へ御出で侯て、
信長の父の織田弾正忠を憑みなされ侯。
【参照】12 光秀と斎藤道三 5光秀の三十代 小 第90話
【参照】13上総介信長 1信秀の死 第91話
道三の下剋上、成る。
斯くして、道三は、美濃一国を手に入れた。
父子二代の下剋上。
ここに、成る。
世人の評価。
辻々に、落首が立てられた。
人々は、道三を、その昔、源義朝(頼朝の父)を殺害した長田忠致(ただむね)
に比した。
爰にて、何者の云為哉(しわざやらん)。
落書に云く、
主をきり聟をころすは身のおはり、
むかしはおさだ、いまは山しろ、
と侍り、
七まがり、百曲に、立て置き侯ひし。
道三の人生は、乗っ取りの連続だった。
先ず、小守護代長井氏を乗っ取り。
次に、守護代斎藤氏の名跡を乗っ取り。
最後に、守護土岐氏から美濃一国を乗っ取った。
恩を蒙り恩を知らざるは、樹鳥、枝を枯らす、に似たり。
太田牛一は、冷酷非道の人物だったと言っている。
山城道三は、小科の輩(ともがら)をも牛裂きにし、
或ひは、釜を居ゑ置き、其の女房や親兄弟に火をたかせ、
人を煎(に)殺し、事冷敷(すさまじき)成敗なり。
【重史027】(『信長公記』)
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