本能寺の変1582 その一因 一、光秀の年齢 そ第78話⑰ 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』
その一因 一、光秀の年齢 そ第78話⑰
2光秀の年齢 6人格形成
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そ第78話⑰ 同日 公家参集
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【参照】その一因 一、光秀の年齢 2光秀の年齢 6人格形成
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そ第78話⑬ そ第78話⑭ そ第78話⑮ そ第78話⑯
同日
本能寺に、多くの公家たちが参集した。
御礼、すなわち、ご機嫌伺い。
この中に、山科言経もいた。
「進物は、返されおわんぬ」
信長は、献上品を受け取らなかった。
その日記「言経卿記」によれば、以下の面々である。
近衛前久・同信基、九条兼孝・一条内基・二条昭実・
聖護院道澄・鷹司信房・
(五摂家、七名)
今出川晴季・徳大寺公維・飛鳥井雅教・庭田重保・
四辻公遠・甘露寺経元・西園寺実益・三条西公国・
久我季通・高倉永相・水無瀬兼成・持明院基孝・
山科言経・庭田重通・勧修寺晴豊・正親町季秀・
中山親綱・烏丸光宣・広橋兼勝・東坊城盛長・
五辻為仲・竹内長治・花山院家雅・万里小路充房・
冷泉為満・西洞院時通・四条隆昌・中山慶親・
土御門久脩・六条有親・飛鳥井雅継・中御門宣光・
唐橋在通
(他、三十三名)
以上、合計四十名。
さながら、御所の如し。
かなりの数であった。
また、公家たちの他に、僧侶や町人たちもいたらしい。
「其外、僧中・地下、少々、これ有り」と、ある。
信長は、きわめて上機嫌だった。
いつもの信長とは、何処か、違うような気がする。
緊張感のような、張り詰めた気配を、全く、感じ取れない。
気のせいだろうか、・・・・・。
雑談は、数時間にも及んだ。
精神的にも、時間的にも、余裕があったのだろう。
「数刻、御雑談」
珍しいことである。
「茶子・茶、これ有り」
懇談会のような場面をイメージすればいいのだろうか。
結びに、「大慶々々」と、ある。
信長は、光秀の不穏な動きに、全く、気づいていなかった。
信長ばかりに、あらず。
誰一人として。
これすなわち、信長の油断。
夜は、次第に、更けていく。
その頃、丹波亀山では、・・・・・。
⇒ 次へつづく
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