本能寺の変1852 その一因 2(1)光秀の素性3 そ第158話⑨ 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』
その一因 2(1)光秀の素性3 そ第158話⑨
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そ第158話⑨
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1素性 そ第53話 そ第54話① そ第54話② そ第54話③
2争乱 そ第155話① そ第155話②
3下剋上 そ第156話① そ第156話② そ第157話① そ第157話②
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そ第158話⑨ そ第158話⑩
道三の下剋上4 大うつけ 5/5
信長は、藤原氏を称していた。
以下は、信長が尾張熱田八ヶ村に宛てた制札。
信長の初見文書とされる。
この中に、「藤原信長」、とある。
信長の織田氏は、元々「藤原」の姓だった。
制札 熱田八ヶ村中
一、当社御造営のために、宮中に人別を収めらるべし、
然る上は、国次(なみ)棟別幷(ならび)に、他所・他国の諸勧進を
停止せしむるの事、
一、悪党現形(げんぎょう=悪事)に於いては、
届けに及ばず成敗すべきの事、
一、宮中、先例に任せ、他国・当国敵味方幷(ならび)に奉公人、
足弱、同預ヶ物等、改めべからざるの事、
付けたり、宮中へ出入りの者え、路地に於いて、非儀(=無理)を
申し懸くるの事、
一、宮中え使事は、三日以前□□幷に其の村へ相届け、糾明を遂げ、
其の上難渋に就いては、譴責使を入るべきの事、
一、俵物(=米俵)留の事、前々の判形の旨に任せ、宮中え相違なく
往反の事、
右条々、違犯の輩(ともがら)に於いては、速やかに厳科に処す
ものなり、
仍って、執達件の如し、
天文十八年十一月 日 藤原信長(花押)
【重史063】(「織田信長文書の研究」)
【参照】12光秀と斎藤道三 4大うつけ 小 86 87 88 89
【参照】12光秀と斎藤道三 4大うつけ 小 第89話
信長は、藤原氏から、平氏に改姓した。
元亀二年1571、信長が、白山別宮に寄進した鰐口の銘文に
「平信長」、とある。
平氏を名乗った初見である。
(表銘)
奉寄進御鰐口白山別山大行事権現御宝前
元亀二年辛未六月吉日
(裏銘)
信心大施主平信長 奉行菅屋九右衛門尉
祈願白山社家石徹白源三郎胤弘 敬白
【重史064】(「信長文書の研究上」)
白山は、越前・加賀・越中・飛騨・美濃、五ヶ国に跨る大山(2702m)
である。
その南へ6kmほどが別山(2399m)で、別山宮が祀られている。
そこから、越前国境までは目と鼻の先ほどの距離。
西方に、越前平野を眺望できる。
信長は、朝倉義景に対して、己の強い決意を示した。
【参照】12光秀と斎藤道三 4大うつけ 小 第89話
信秀と清州の間に、和議が成立した。
同、天文十八年。
秋の終わり頃。
平手政秀の努力が、ようやく、実を結んだ。
清州織田氏との間に、和議が結ばれた。
翌年、秋の末、互いに屈睦(=譲歩)して無事(=和睦)なり。
政秀は、なかなかの風流人であったようである。
これを祝し、清須の宿老らへ送った書状の中に紀貫之の一首を添えた。
其の時、平手、
(清州の)大膳・甚介・河尻かたへ、和睦珍重の由侯て、書札を遣はし、
其の端書に古歌一首これあり。
袖ひぢて、結びし水のこほれるを、春立つけふの、風や解くらん*、
と候へつるを覚え候。
か様に、平手中務は、
借染(かりそめ)にも、物毎(事)に、花奢(風雅)なる仁にて候ひし。
【重史065】(『信長公記』)
*袖を濡らして掬った水が凍ったのを、立春の今日の風が溶かす
のだろうか(「古今和歌集」紀貫之)。
⇒ 次へつづく