本能寺の変1582 【 重史 28 】 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』
【 重史 028】 「小畠文書」
←はじめに ←目次 ←【 重要史料 】 ←
→重要 ◎目次
→重要Point ◎目次 重要Point 通し ◎目次
→テーマ別 目次 テーマ別 通し ◎目次
→【シリーズ】信長の甲斐侵攻 光秀と長宗我部元親
→その一因 目次大 目次中
→見えてきたもの 目次大 目次中 +240607
→【 人物 】
*加筆修正
【 重史 028】 そ第78話⑫
一両日中に、御上洛の旨候間、是に、相待ち申し候、
「小畠文書」
天正十年1582、五月二十七日。
信忠は、京で、信長の上洛を待っていた。
信忠の情報源は、村井貞勝だったのではないか。
以下は、京の信忠が、安土の森成利(乱丸)に送った書状である。
使者のルートは、わからない。
最短は、京→坂本→安土 である。
尚々、家康は、明日大坂・堺に罷り下られ候
中国表、近々、御馬出さるべきの由候条、
我々、堺見物の儀、先ず、遠慮致し候、
一両日中に、御上洛の旨候間、是に、相待ち申し候、
此旨、早々、御諚を得られ、申し越さるべく、
委曲の様躰、使に申し含め候条、口上に申すべく候、
謹言、
五月廿七日 信忠(花押)
森乱殿
(「小畠文書」)
【引用】 そ第78話⑫
⇒ 次へつづく
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?