越境する「もののあはれ」(1)
逢坂山の奇跡
若い光源氏は須磨に流れた。
亡き父・桐壺帝の中宮との密通が、彼に悪意ある父の正妻・弘徽殿(今上・朱雀帝の母)に露見して、東宮(後の冷泉帝)に害が及ぶことを避けるためだった(第12帖「須磨」、第13帖「明石」)。
2年後、やっと都へ帰ることが許された源氏であるが(第14帖「澪標」)、彼はもはや流謫前の若者ではなかった。すぐさま大納言に昇進し、参議の中枢となった。それと同時に朱雀帝は退位し、冷泉新帝の朝廷が彼に活躍の場を開いた。栄華の道が彼を待っていた。が、その前に、源氏は、女であれ従者であれ、彼が都ではすでに亡き者同然とみなされていた間、不遇に甘んじながらも、決して彼を忘れることなく待っていた人々に再会し、その人たちの立場を安泰なものにすることを忘れなかった。須磨と明石の地で荒々しい自然を前に、内面に沈潜する毎日を送るうち、このすべてに恵まれた貴公子は、時間と空間を超えた心のつながりというものを深く知るようになっていたからだ。
第16帖「関屋」には、そうした再会のエピソードの一つが見つかる。帰京した翌年の秋のことだ。源氏は石山寺へ参詣しようと思い立ち、行列を率いて京都側から逢坂山の関(京都と滋賀県の県境)を越えた。ちょうどそのとき、反対の近江(滋賀)側から、上洛する受領の一行も登ってきていた。現在では常陸守となっているこの受領は、かつて伊予国に赴任していた。10年前、17歳だった光源氏は、その伊予守の若い後妻に一夜の関係を強いたことがある。「空蝉の女」と呼ばれたその女は、それ以来彼の人生から消していた。10年ぶりの偶然で、二人はこの逢坂の関で「再会」することになったわけである。しかし、もちろん顔を合わせるわけでも、言葉も交わすわけでもない。お互い、相手には忘れられたと思いつつ、昔を思い出している。そうした一瞬を切り取ったのが場面である。一見何の変哲もない場面であるが、ここで使われている「あはれ」という語の威力は大変なものであり、人の心の陰翳を切り出すその効果は、『源氏物語』全編においても白眉である。それだけではない。人の心と人の心が同じ思いに響き合う(あるいは響き合わない)という根源的な謎、現在まで誰一人解明したことのない謎、しかしあまりにも恒常的に偏在するため、現代人の理性はそこに何の不思議さも見いだせなくなっている謎——そうした謎から、古代的な神秘性を剥ぎ取って、きわめて人間的なものとして提示した箇所である。もっと簡単に言ってしまえば、「関屋」帖の「あはれ」には何か、普遍的とでも言えるところがあるのである。
コメントはさておき、この場面を原文で丹念に読むことに努めよう。それはこう始まる。
ちなみに、『源氏物語』をいきなり原文で読むのは難解を超えて不可能という臆見が、現在では常識となっているようであるが、そんなことはない。本居宣長に言わせれば、『源氏』の解読の難しさはほとんどが知的な意味での「意」の領域に属しており(つまり現代語訳されれば解決する話であり)、それゆえに、まったく大した問題ではない。宣長の「姿は似せ難く、意は似せ易し」という逆説めいたことばは、古文、特に歌から流れ出た言語においては、形状や音やリズムといったものにほとんどの内容は含まれており、理性の道具としての「意」などは表面的な飾りに過ぎない、ということを言ったものだ。宣長にとっては自明のことだった。だからこそ、彼が初学者に与えた助言は「くりかへしくりかへし、よくよみ見るべし」に尽きたのであり、反対に「やってはならないこと」の筆頭は「まづ知らんとすること」だったのである。
「よく読み」かつ「よく見る」こと——それは、簡単には開示されない文章らしきものを前にして、すぐに頭で理解しようとしないだけの忍耐力を持つ、ということだ。自分と関わらない、一般的な「意」をそこに読もうとする、つまり、他人の言葉で訳そうとする理性の誘惑にどこまでも耐えることである。知的理解の要などを脇において、原文を繰り返し復唱し、眺め続けていれば、いずれその素材である「言辞(ことば)」の「姿」は我々の心身に染みとおるようになる。そのとき、我々は自分の内部から、その文面の唯一の「意」が立ち上がるのを感じるだろう。これは、宣長が実践から得た確信である。
現代の読者にとってはもはや想像もつかない古典との接し方であるが、少なくとも『源氏物語』に関しては、またその「あはれ」の表象に関しては、宣長は正しいと言えるだろう。原文が織りなす一種の生きた情緒的環境を離れては、偏在し、変調し続ける「あはれ」という語の微妙な音の反響を聴きとることはできないからだ。
「関屋」に戻ろう。この帖は常陸守の一行の視点から始まっている。光源氏の一行が京都から来るという、おそらく早馬が届けた知らせは、受領の一族にとっては由々しい事態を示している。受領層が殿上人と対等にすれ違うことなどできない。また、近隣の百姓たちは数十、否、数百メートルに渡って測道に平伏し、測道を埋め尽くすだろう。大納言の行列など、ただ行き過ぎるのを待つだけでも半日仕事なのである。常陸(茨城県)から二ヶ月近い、長く危険な旅を経て都に帰ってきた地方官の家族たちは、さっさと関を通り過ぎてしまうことを望んだ。逢坂山を越えたところには三叉路があり、そのまままっすぐ西へ進んで京の町中へ向かう道と、南下して大和の国境へ向かう道がわかれている。うまく行けば、そこで公卿の一行にすれ違わない道を選ぶこともできる。それで、彼らは明け方に出発することにしたのである。
残念なことに、道程は思ったほど平坦ではなく、受領の一行が打出(うちで)の浜(大津寄りの琵琶湖南岸)に着いた頃には、すでに正午近くなっていた。早馬の知らせでは、大納言の行列は半刻前に粟田山(蹴上から山科盆地に抜ける丘陵)を越えたとのことである。受領たちは覚悟を決めて逢坂を関に向かって登り始めた。一族郎党を従えた列は長く、騎馬を前に、徒歩を後にして分散させてはいるものの、簡単に方向を変えたりすることはできない。街道は、すでに大納言のお通りを叫ぶ先駆の者たちで一杯だ。もう公卿の行列はそこまで来ている。賢明にも、これ以上進むのは剣呑と判断した常陸守は、前哨の郎等に休止を命じた。受領とその家族たちが乗っていた十台ほどの車は、すべて道の脇の林の中に移動し、轅(ながえ)を外された。乗っていた人たちは皆降りて、杉の木陰に身を潜めつつ、ひれ伏して大納言の行列が行き過ぎるのを待った。一方、当の大納言の先駆を務める者たちは、受領の一行が向こうからやってきて、徐々に停止するのを見た。その後彼らに追いついた騎馬の護衛は、馬を止めて、この地方上がりの一行を興味深く眺めた。道の脇に停められた車の数々は、決して田舎びたものではない。地方の豪族が斎宮の伊勢下りの行列を見物にやってくる時に乗るような瀟洒なものもある。あちこちから女の袖口が見えるが、それも立派な絹ばかりだ。
季節は11月上旬。紅葉の盛りである。深い赤、瑞々しい紅、鮮やかな黄色を錦の透かし模様のように重ねた葉叢の連なり、霜に漂白されたような草むらの間に広がる。逢坂の関所を示す小舎のまわりの杉林には、それに混ざって、木陰に潜む旅人たちの衣の鮮やかな染め色が点々と見える。この光景に打たれた源氏の一行は、すっかり足を止めてしまった。
車の中にいた大納言=光源氏もまた、そうした光景を興味深く眺めていたが、ふと簾垂を下ろして、側近に「兵衛の佐(すけ)を呼びなさい」と言った。この兵衛の佐は「空蝉の女」の弟である。10年前、姉との取り次ぎ役として雇った者だ。一度使えば見捨てないのが源氏だから、姉を見失ったからといってすぐさま解雇はせず、現在まで身近に置いていたのである。この日のために置いていたようなものだ、と思いつつ、源氏は訊ねる。この常陸守というのは昔の伊予守、つまりお前の姉の夫か。「そうです、姉もこの中にいるはずです」との兵衛佐の返事に、源氏の胸は高鳴る。
あの夏の日は、遠い青春の一コマとなっていたはずだった。あれ以来、源氏は夕顔と呼ばれた恋人を亡くし、子と引き換えに妻を亡くし、義母との密通という罪を背負い、父帝を亡くし、敵対的な雰囲気の広がる宮廷から閉め出され、流謫の罰を受ける、という試練を経てきた。それなのに今、彼の心は17歳の頃に戻っている。中河の紀伊守の邸での空蝉との出会い、うっかりと手を出した途端に出会った激しい抵抗、それに対する尽きせぬ驚き、狼狽、そして感嘆。その後、二度とこちらからの呼びかけに応じてくれなかった女への苛立ち、悔しさ、見捨てられたという気持ち。忘れたと思っていたそれらの感情が一つ一つ、あざやかに蘇り(「いとあはれに、思し出づること多かれど」)、この重厚な公卿を夢と現が交錯する領域へと連れ去る。
10年前、光源氏は、宮廷の女官にからかわれるほどの初心な若者だった(「光源氏、名のみことごとしう」)。内裏の同僚たちの会話に刺激されて、「中品(受領層)の女」に手を出してみたものの(第2帖「帚木」)、その後の誘いに応えない女の沈黙を前にどうしていいか分からない始末。美しいわけでもない女、ほとんど何の会話も交わさなかった女なのに、なぜ忘れられないのか、自分でも分からなかった。何よりも、ただ実直なだけが取り柄の年老いた夫になぜ女が操を立てるのか、若い彼には理解できなかったのだ。本当は夫がくれる生活に満足などしていないのに、本当は宮中へ出たかったくせに、と想像の中で責めても虚しかった。もう一度会いたいという思いが嵩じて、源氏は女の弟を使って再び女の家に忍び込んだ。しかし、それを敏感に察知した女は、その寸前に寝床から脱け出していた。源氏の手に上掛けの薄い衣だけを残して(第3帖「空蝉」)。この瞬間、空蝉は源氏にとって、忘れられない個性となった。彼の人生の一つの時代が、その女の痩せた小さな体の中に凝縮された。
はっきりしている。10年という年月は、結局何も変えはしなかったのだ。「いよいよこうなっては、どれほどつれない空蝉の君でも、私を無視し続けることはできないだろう」。こんな馬鹿げた台詞さえ、思わず口から漏れてくる。
しかし、実際問題として、10年前女が自分をどう思っていたのか、源氏には知るよしもない。傲慢な貴族から受けた屈辱的な経験として、記憶の彼方に捨て去った可能性も無くはない。ひれ伏す受領の一群を眺めながら、源氏は自分の高揚した心の奥にわずかなかげりがあることを感じている。「でも、私一人思い出していても、どうしようもない」という理性の声は、思い出の熱さに水をかけることはなくとも、十分に重い。
ここで奇跡が起こる。
まさしく、女もそう考えていたのだ。
紫式部の筆は、簾垂を下ろした車の中で思い出に浸る光源氏の独白から、何の中間項も、何の説明書きも、何の外的状況の叙述のクッションも置かずに、受領の一群に紛れた女の心中に移る。
読めばすぐに分かるように、ここで女の心と男の心は互いの鏡像の関係にある。すべて一対一で対応している。まわりの誰一人何が起こっているのか見ないまま([人知れず])、一瞬のうちに「あはれ」の渦に呑みこまれ、翻弄されているところから、同時に心の片隅で「でも、こんなことを思っているのは私一人に違いない」という理性の声を聞いているというところまで。
とは言え、それを奇跡とみなすのは「事実」などといったものがあると考える人だけである。つまり、何らかの、誰にとっても同じものであるような「意」の世界がまずあって、その表出あるいは表象としての「詞」(宣長のことばを使えば「姿」)がある、と考える人たちのことだ。そうした人たちの目には、ここで起こる不思議な偶然は、メロドラマチックな御都合主義、あるいは平安貴族の女房クラスの女たちの度し難い少女趣味にも映るだろう。
そう、これはお伽噺である。しかしその何が問題だろう。なぜしばしば、お伽噺の方がジャーナリズムよりも人間的真実に近いということが起こるのだろう。我々も心底ではよく知っている。知性や論理と呼ぶものも、突き詰めれば、こうした「偶然」に頼ていると。平安時代において、それは全く自明のことだったようだ。「写生」の達人であった「事実」などに何の価値も置いていないのだから。
式部において、おそらく観察の技と語る力は連続していた。彼女にとって重要であったのは、おそらく心と心の鏡像関係の図式、あるいはシンメトリーの形式だけであった。シンメトリーは『源氏物語』を構成する語りの習性とも言えるものであり、それは能う限り自然に人間の内面観察の形式を映し出している。こうした形式的特徴こそ、宣長が「姿」と呼ぶものなのだろう。そして、「姿」の圧倒的な存在を前にしては、それがあり得るとかあり得ないといった「意」の議論は無効であろう。宣長と小林秀雄が注目し、長々と論じた「螢」帖の「光源氏の物語論」などは、観察と現実を分けていた律令治下の臣民にとって饒舌で余分なスピーチに過ぎない。
『源氏物語』が同時に完璧なお伽噺であって、完璧なリアリズム小説であることの鍵はここにもある。この「偶然」を奇跡と呼ぶか、メロドラマと呼ぶか、そのような議論は光源氏にも空蝉にも関係ないのだ。ここで物語という現実に繋がる心の「形式」が成立するには、この二人が、この二人だけが、純粋に精神的な邂逅というものがあることを深く信じているだけで十分なのである。
さらに言おう。
目に見えない二人の邂逅を当時の読者と現代の読者に説得力のあるものとして映し出すのは「事実関係」でも、少女趣味の御都合主義でもなく、個人の思念や利害を超え、世俗の関係性を超えた大きな信念であるとするなら、それは何か。おそらく律令の掟が初めて形にし、永劫の文明の基盤としたような、「人の心は同じ」という信念ではないだろうか。
これこそが、日本上代から中世にいたる時代の文芸の原点にして到達点である「大きな物語」なのではないかと提唱して、先に進もう。
少しやり方を変えて、形式的論理によってこの場面を読んでみよう。
矛盾と葛藤が高騰し、最後に声にならぬ声が詠んだ歌が唱和となるまで。
まず、この場面には、心理的対照性以外によりスケールの大きな対照が下敷きとして隠れていることに留意しよう。人間と人間を隔てるもの(他人、階級、社会)と近づけるもの(思念、感情、欲望)の鮮やかな対比の中にあらわれる、物質世界と精神世界の対照である。
その対照を念頭に、この場面を社会的対立の構図として見てみよう。
宮廷で権勢を誇る公卿の参詣行列は、年期を終えて帰京する受領の一行に劣らず長かっただろう。狭く暗い山道には、十数台の車と騎馬の従者と徒歩の随身で埋められていただろう。杉林の中に散らばって、枯葉で埋もれた地面、あるいは尖ったシダと苔の間に額をつけてそれが通り過ぎるのをじっと待つ受領の一行の耳には、車輪がきしむ音と、騎馬の随身の装束についた金具や鈴の音が華やかな楽のように聞えていたはずだ。それが、突然静かになる。源氏の一行が停止したからだ。時折馬が足踏みする音、杉の木立をかすめる鳥の羽ばたきの音、馬上の護衛の上機嫌のささやき声、そういったものと混ざって、衣擦れの音や高貴な人々の衣装に薫きしめられた香が山道に流れ始めていただろう。数メートルの距離で向いあっているにも関わらず、源氏も空蝉も身動きひとつできない。互いに手を差し伸べ、抱き合おうとするのは、その思念だけであるが、その思念もまた、彼ら自身にとって、あまりにも不可思議で矛盾に満ちたものである。
西洋19世紀の小説ならば、同種の場面を描く場合、間違いなく「感情と理性の葛藤」あるいは「欲求と義務の葛藤」という対立をベースとして叙述するだろう。しかし、平安の物語において、シンメトリーが観念的対立として現れることはまずない。この場面でも、様々なシンメトリーの要素は互いを打ち消すことなく併存している。ただ、その中で最も強い要素が他を統合するのである。それが、思念についての思念である。言い換えれば、記憶によって増幅され、かつ外部的状況(想う相手と一気に距離が近まった状態)によって非現実的なものとして糾弾され、それゆえに返って統制がきかなくなった思念を、どうしようもないものとして眺める心の動きである。つまり、「あはれ」である。
空蝉は、圧倒的な思い出の奔流が心に溢れるのを感じつつ、同時に小さな理性の声が心の片隅で「でも、もう昔のこと、源氏の君は私のことなどお忘れになっている」とささやいているのを聞く。分裂を迫られた彼女の心は、「あはれ」に逃げる。何一つ否定せず、女の心をそのまま受け止めた「あはれ」は、歌の形で表出する。
彼女が独唱と思っていたこの歌は、実は唱和であった。しかし、我々はもう驚かない。物語がそう決めたということを知っているから。格上の者、あるいは男性のすべきこととして、光源氏は目の前の受領一行の中にいる空蝉に宛てて、兵衛佐を使って文を与える。彼の歌が女の歌に応える。
源氏はこう続ける。
もちろん、これ以上はないほど紋切り型の艶書だが、同時にそれは源氏の本心である。読者にとっては清水の如く明澄な矛盾である。
しかし、兵衛佐にとって、主人と姉の間に何が起こっているか、どうやって想像し得ようか。彼は姉に返事を促す。
あんな昔の取るに足らない関わりを覚えておられるなんて、なんて源氏の君はお心の広い方とは思いませんか。お返事しない方が罪ですよ。源氏の君の口説きに折れたとなっても、弱い女のことだと、世の中の人は許してくれます。
はかない現世の利益にとらわれた弟の声は、空蝉の耳に入っただろうか。これが夢か、それとも昔が夢か、と呆然と思いながら、彼女はじっと白い紙の上の高貴な人の筆跡を眺めている。これほどに紋切り型の艶書を夫の前で送られたのだから、弟が心配したように、「公卿とは言え失礼な」と一蹴してもよかったはずである。でも、空蝉はそのように動かない。彼女の心は今や、男の心の素直な鏡となっている。源氏のためらいと期待が、水が流れ込むように彼女の胸に入り込み、彼女自身のものとなっている。
空蝉はここで、源氏を忘れていないという打ち消すことができない我が心の真実と、「繁き歎きを分ける(悩み多い人の仲を裂く)」社会的障壁(逢坂関はその象徴である)という現実の二つを両手に抱え、どちらも拒否しない立場に辿り着く。これこそが、宣長の言う「もののあはれを知る」という状態に違いない。深く人間的な他者と自分自身の理解に支えられた賢明さ、とでも言えるだろうか。物語の観点から眺めれば、空蝉の最後の歌が明らかにするものは、「あはれ」は卑俗な感情も高貴な感情も、社会的現実も、内観の真実も、すべて拒まず、すべてを同じように受け入れるということである。その心を、彼女はこう歌う。
「関屋」帖の光源氏と空蝉の邂逅の場面において、「あはれ」はいつしか、社会通念をも含んだ人間社会への透徹した目にかわっている。物語のプリスムを経たとき、魂の邂逅という「奇跡」は、現実以上に現実的な「偶然」となる。とすれば、そうした「偶然」の源泉にあり、物語を絶えることなく生み出し続けている「あはれ」という感情こそは、人の心と人の心の間のあらゆる障壁を取り除く絆である。人間でさえあれば、誰もがアクセスできる魂の在処とでも言えるものである。一方、「あはれ」は卑近な心も容認する。「あはれ」は人の心に生まれるあらゆる状態を何一つ否定しない。
『源氏物語』「関屋」の冒頭の場面では、「あはれ」という人間共通の感情が、一瞬にして二人の人間の魂を近づけるという「奇跡」を行う。中世文学から近世文学まで「偶然の邂逅」という要素がどれほど隆盛したかを見ても、平安後期から中世の読者たちがこの程度の偶然を「奇跡」と考えたかどうかは怪しい。重要なのは、この時代において、この心と心の唱和を物語の要素に配した紫式部の、ある意味、厭世への傾きも備えた、人を見据える目であり、その目が浮かび上がらせる「あはれ」の様相である。
宣長が見抜いたように、源氏は「もののあはれ」に始まり、「もののあはれ」に終わる。「あはれ」はもちろん神秘だ。人間を統べる神秘である。人が同じ局面で同じことを感じること、同じことに震え、同じことに項垂れ、同じことで慰められること、それがどれほど不思議なことかと思えば、確かに神秘である。同時に、神秘であるというその理由から、「あはれ」の力は人間を超えることはない。人間と同じように無力な神秘である。社会制度や時空によって引き離された人間を結びつける力はない。
日本人の心の歴史において、「関屋」は何かのターニング:ポイント、あるいはポイント・オブ・ノーリターンを示している、と思われるのはそのためだ。
(2021年5月某シンクタンク研究雑誌に発表ー2次使用については権利者から許可取得済)
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