私の歩く道
私は物作りで生活を営んでいる。いつも厄介なのは値段をつける作業。用意する物と私の労働時間とアイデア料を足せばいいだけだが、自分の魂までくっ付いていくから案外難しい。まるで人前で裸になり、私はいくらですか?ってきくようなもの。いっその事物々交換が良い。もしくは誰かが勝手に決めてくれてもいい。でも誰が決める? 無闇な値段も納得できないし。
普段は希望価格を伝えれば納得してくれることが多いが、たまに値切ってくる人がいる。そんな時は何だか虚しくなり自己価値が低くなるのを観る。とにかくあまり好きな作業じゃない。
作家になるとは一体何なんだろう? 人の心を掴み、それを欲しいって思わせる作家もいれば、浮かばないのもいる。同じだけの時間も労働も使っているのに出るこの差。アートの世界だけではなく、全ての分野で言える。ある時、プロサッカー選手になりたい子達にこんな話をした。
スタートはみんな同じ「篩(ふるい)」という土壌に立っている。時間が経つ毎にその篩は振られ、人が落ちていく。韓国のイカゲームみたい、笑。その繰り返しで最後まで踏ん張った一握りだけが、やっとその道で生きていく人達の仲間入りをする。いつまで踏ん張るのかって? 一生涯。その覚悟をした人には大抵の場合、不思議と助けの手が何処からかやってくる。
努力を惜しまず信念を持って生きていると、ご褒美も適当な時間間隔で与えられる。そのご褒美とは、また頑張れる勇気が与えられるとか、極楽達成感、或いは、ゆとりのある贅沢な感覚を味わう、束の間のあれのことをいう。
私達が知らぬ間に選んでいる職業は、なんらかの理由で導かれている感覚もある。もしこれが使命だとしたら、私がこの言葉も通じないパリに越してきたのも理由があると思う。そう、信じたい。
三十数年前にウィーンに来た時と同様、素直になれる言葉を周りにかけ、愛が愛で返ってくるように接すれば良いんだと思う。