【手段】が目的化するとつまらなくなる〜思ったことを文章でどのくらい伝えることができるのか〜
思ったこと→文章
目の前の紙、タブレット、パソコンに思ったことを文章で書くとき、そこに表示されている文章は自分の脳みそで得た着想、想い、気持ちをどれほどの純度で反映しているでしょうか。
そんなことを考えたときに、文章がうまいと言うことと、気持ちをそのままかけると言うのは別のことなんじゃないかなぁと思ったわけです。
誰にとって心地よいもの?
①読んでいて心地よいもの、それは読者に向けた文章であり、読者の脳みそがインプットしやすいもの。
②書いていて心地よいもの、それは筆者による文章であり、筆者のアウトプットが限りなく高い純度で表現されている状態。
私自身がnoteに求めているものは後者で、なので必ずしも読んでくださっていて心地よいものではないかもしれません。
でも、まとめようとすると発想がそこで止まってしまう感覚があるんですね。なので"まとめる"と言うことがこれから必要かなぁと思ったりもしています。
まとめているうちに、複数の人が介在するうちに自分の思いが少しずつその文章の中から失われてしまうのであれば本末転倒。何のためにその文章があるのか。
私は文章を書くのが嫌いだった
私は小学生のころ文章を書くことが嫌いでした。
夏休みの読書感想文なんてその最たるもの。なぜ毎年のように興味のないものに打ち込まなければならないのか。そんなことを思っていました。
後々その意義も理解できるようにはなったのですが…。
それがいまは475日前から始めたnoteによって、毎日文章を書くようになりました。
なぜ文章を書くことが嫌いだったのかと言うと、今思えば書くことが目的化してしまっていたからだと思うんですね。
読書感想文を書く(目的)→そのために本を読む(行動)だったんだと思います。
しかし本来の姿は、
本を読む(目的)→読書感想文を書く(行動)
だと思うんですね。
まぁ、それをきっかけに、
自分にとっていい本に出会うということにつながるのであれば結果的にポジティブになるとは思いますが。
手段が目的化するとつまらなくなる
文章を書くと言うのは、あくまで自分の思いをアウトプットする手段だと思っていて、そもそも思いがなければ本来存在しても無意味なもの。
『文章を書くから無理やり何かを思ってください』って言われたら苦しいと思うんです。
そのように、自分の中で本来手段として存在しているものが目的化してしまうというのは、それ自体に対する目的意識が低下するリスクをはらんでいると思うんですね。
だからこそ、まず自分の中に浮かんだ気持ちに合わせて行動を選んでいくという一見シンプルなプロセスが、大事だったりするんじゃないかなぁと思っています。
今回は『【手段】が目的化するとつまらなくなる〜思ったことを文章でどのくらい伝えることができるのか〜』について書かせていただきました^ ^
また、あしたね😊
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