よく昼間の月の夢をみる。 昼間の月は小さな窓の先に浮かんでいる。 窓は小さすぎてほとんど何も切り取ってはくれないのだけれど、決まって昼間の月だけはその窓枠の内に姿を現している。夢の中で見つめる月は、たいていの昼間の月がそうであるように、薄く、淡く、どこか儚げである。そんな頼りげのない球体が、唯一覗ける青空の大方を毎回埋めてしまっていることに対して、僕は素直に喜ぶべきなのだろうか。 分からない。 月を眺めるのに飽きると、僕は一度深呼吸をする。そして、窓の外に広がって
真実の愛がこぼれていく 信念が水に溶け込んで みるみるうちに雫になる 全部、すり抜ける 白い網目の隙間を 底知れぬ暗闇へと 誰も後ろを着いてはこない 恐ろしい沈黙 冷え切った世界 若者の不敵な笑み 期待と自意識が入り混じった騒音が 扇情的に季節を笑っている 彼らのドラマが 彼らなりの主張が いずれも、やがても 存在しない世界で うごめいている 少なくとも僕は、そこではもう生きていけない 一人の人間を信じられなかったことが どうしてこんなにも苦しいのだろう 一人の人間を愛す
フラニーは車輪の回転を眺めていた。男の家に向かう途中で、からっと晴れた日曜日の昼下がりだった。彼女はバスの最前列の一人席に座っていた。郵便局前の停留所で停まったバスの脇を比較的速いスピードで通り過ぎていく車のそれぞれには、もれなく車輪が備え付けられており、彼らがバスを追い抜こうとする時には決まって後輪が斜めを向いて、彼女への一瞥を忘れなかった。車輪の回転はつぶらな瞳のようだった。 窓の外にマクドナルドのチーズバーガーを美味しそうに頬張る初老の男性が見えた。男性はベンチに座
───────────────────── 『パリの名所ムーラン・ルージュ、赤い風車の羽根が落下 』 フランス・パリの観光名所にもなっているダンスホール「ムーラン・ルージュ」で25日、シンボルの赤い風車塔の羽根が落下しているのが見つかった。 CNN提携局のBFMTVによると、店名の看板「MOULIN ROUGE」の文字のうち「MOU」の3文字が、落ちた羽根に当たって落下した。文字はその日のうちに交換された。パリ消防局によると、けが人の報告は入っていない。 風車の羽根が
その食事会の最後にはブルーベリーパイが出た。焼き目のついた生地に包まれたブルーベリーは、古い記憶のように美しい。 素敵な匂いがした。 ゆっくりと、半ば機械的に、パイを口元へと運んだ。フォークは適度に重く、指先は微かに震えている。わずかな甘みと優しい酸味。ガラス製の灰皿の中で細長い煙草がじっと燃えている。僕は無心でフォークを動かした。吸殻のフィルターには口紅が避け難くまとわりついていて、それらは埋めてすぐに掘り起こされた兵士の死体のように見えた。 頬を右手の人差し指と
久しぶり。 空っぽになって、 身体の底から声が出た。 柔らかく腰の骨、急いで刺す花瓶。 床に散らばる、余ったカーネーション、光が差し込んでいる。 「ごめんね。この一つきりなの、花瓶」 干からびていく透明な縁、反射する花弁の顔。 「新しいのを買いに行こう」 「うん」 「いつになるかな」 「いつか、きっと」
「いやだ。 メロンソーダが飲みたかったのに。 それが無いから、代わりにアイスココアにしましょっていうのが好きじゃない」 沙羅(さら)はメニュー表を一通り眺めたあとにそう言った。僕と行動を共にして、ようやく発した言葉がそれだった。 沙羅の背景には深い褐色のレンガが敷き詰められていた。等間隔の繋ぎ目を沿うように視線を泳がせる。巧妙に貼り付けられた薄いレンガの壁紙。刺すように冷たい風が首のあたりに吹き続けていて、どこから風が出ているのかわからなかった。 「メロンソーダが飲
彼と彼女は掛け時計を見ていた。 二人の置かれた状況について、そして彼らがこれからどういう行動を取るべきかについて、深く語り合う必要があった。いくつかの針が回っていた。しかし、どの針を眺めても彼らの道のりを直接的に指し示してはくれそうになかった。 「内側には本当の心が保存されていて、、、」 彼女がつぶやいた。 彼はそっと彼女に目をやると、すぐに時計に視線を戻した。秒針が音も立てず一定の速度で回り続けている。その自明の事実が彼の感情を平静なものへと引き戻してくれる。 二
いつものランニングコースに野うさぎの死体が転がっていた。車に轢かれたのだろう。暗くてよく見えないが、黒い溜まりのようなものが広がっていた。 「何にもないのだ、あいつには」 3時間前に見た暗い日本映画の科白が脳内でこだましていた。 手を振り、足を踏み込む。 どうして私はあんな男と付き合っていたんだろう? たまりはすぐに過去になった。 枝垂れた柳が小さく揺れて、視界の隅へと消えていく。柳は貞操観念の強い男の独り言のような醜い囁きを繰り返している。気持ちが悪い。彼ら
「私はカタチに現れる悲しみだけが全てじゃないと思うの」 水滴のついたグラスをそっと撫でながら女が言った。彼女の右手の人差し指は第二関節からその先が欠けていた。季節は冬で、窓の外は新品のパレットのように白く、寂しげだった。 僕はひどく混乱してしまった。 冷たい小雪が頬を撫でる。 夜道をトボトボと歩く。 ホテルはどこだろう? 道を聞いた僕に、男は両手を広げこう言った。 「この人差し指が市駅へと続く道だとします。だから、この薬指をあなた自身の道と捉え、つきあたりを右
個人的に好感を持っている街がある。 その街は僕が生まれた街からひどく遠い場所にある。どうしてその街に強く惹かれるのか?これといった具体的な理由は思いつかない。僕はどうしようもなくその街に惹かれてしまい、ふと気がつけばその街に、吸い寄せられるように出向いている。ふと気がつけばで済まされるほど手頃な存在では決してないのだけれど。 僕がその街に足を踏み入れる時は決まって(何故だろう)いつも雨がふっている。街は孤独で寂しい。うらびれている。でも僕はそんな寂れた街に、毎回新鮮な親
僕は感動している 昨日と違う場所にいても 地球は変わらず回っている それはとても素晴らしいことなんじゃないかって、僕は感じている 君は感動している 昨日と違うことを考えていても 白雲は変わらず窓を横切り流れてゆく それはとても優しいことなんじゃないかって、 君は感じている 歩道橋を渡って少し空に近くなる 君が何を感じても、僕が何を思っても 変わらず空は青くて気持ちがいい 無駄なものなんて何一つ無い そういう気がしてくる 僕らは感動している 昨日と変わらず感動してい
枕が窪んでいる。 その窪みは僕がかつて失った人間の頭のカタチをしている。あの人がいないということを、その不在は雄弁に語っている。 絵画における一見の空白が、時としてそこに潜む“何ものか”を刻々と浮かび上がらせるように、そこに存在しないということは時として巨大であり、圧倒的である。 淡い月の光がするりと差しこみ、枕の上へ着地している。柔らかな光が窪みを優しく撫でつけると、やがてそれらは室内の沈黙に溶け込んでいく。 枕は語っている。 『損なうということ』のその意味を。
僕は少し早く海に着いた。友人を待っている。青いスカーフを広げたような空。早起きの花屋みたいな海。口笛を吹く。イエローサブマリンを歌う。優しい風が集まってくる。 僕は海を駆ける。潮が引いて海は浅い。ずっと先まで進んでいく。耳を澄ませろ。海が言った、海が言った。シーセッド、シーセッド。 「死ぬって事がどういうものか分かる?」 シーセッド、シーセッド。彼女は言った、彼女は言った。「現実ってものがうまく理解できていない見たいね」って。僕は言った。確かにその後、僕は言った。きっと
ターンテーブルにアンチョビのピッツァを乗せる。 回転するプレイヤー、12インチのピッツァ。 落とし込まれる針、再生される過去。 レコードの針は哀れなアンチョビを絡めとる、一匹、また一匹。 暗い窮屈な缶詰の話、隙間隙間に潜り込む重い意識のようなオリーブオイルの話、あるいは遥か昔、海底の話。 ソニーの大きなスピーカーは仰々しく、彼らの声を聞かせる。 「ウーー、ウゥーーー、ウウゥー、ヴェーー、ヴィヴィヴィーーー、ヴィウウーー、ウウーー……」 あらかたはそんなところ
最後の雪かきのような、 浮かんでいる遠い私。 白い、白い枕の上に。 場所に、知っていた、戻ってくる、そこへ。 暗号を送っている身体。 身体、私の。 細い喘ぎ、あなたが残した愛撫、 浸透していく心。 薄い襞と、揺れているヴェールの奥、 声が聞こえる。 古い思い出を模った、ひどく味気のない写真。 あなたが眠っている姿。 「雪かきの底が、終わりでも、始まりでもあるように」 あなたと私が眠っている間、 冷たくならない記憶の上に、 知っていた場所がそこへ戻っていくように、 あなたの