傘立て

 個人的に好感を持っている街がある。
 その街は僕が生まれた街からひどく遠い場所にある。どうしてその街に強く惹かれるのか?これといった具体的な理由は思いつかない。僕はどうしようもなくその街に惹かれてしまい、ふと気がつけばその街に、吸い寄せられるように出向いている。ふと気がつけばで済まされるほど手頃な存在では決してないのだけれど。
 僕がその街に足を踏み入れる時は決まって(何故だろう)いつも雨がふっている。街は孤独で寂しい。うらびれている。でも僕はそんな寂れた街に、毎回新鮮な親しみを持つことができる。難しい話だけど、その街は悲愴に満ちてはいない。悲しくて孤独に満ちてはいるが、決して陰鬱ではない。不思議なものだ。

 街に足を踏み入れる瞬間、毎回、新鮮に僕はある感情を抱くことになる。
それは『もしかしたら、その街は僕の心の中をそっくりそのまま具現化したものなのではないか?』ということだ。本当のところは分からない。しかし、街の一見簡潔的で、容易に説明することができそうな身近さと、実際には全てを理解することができない絶妙な距離感が、僕にその考えを押し進めさせる。月の裏側のくぼみのような奥ゆかしさが、秘密をはらんだ不思議な雰囲気が、僕と街との関係には見出すことができる。否応なく。そう、それはやはり、断言しても良いのだろう。きっと、何かしら関係はあるのだろう。そんな気がする。


 街にはもちろん港がある。街の大部分を港が占めている。海と船、かもめが飛んでいる。だから僕はその街に惹かれるのかもしれない。街には港があるから。僕は性懲りも無く、どうしようもない衝動を感じるのかもしれない。潮の匂いがして、誰かが街を離れ、ある島へと向かう船が見える。そこには別れの匂いがあり、再会の匂いがある。出会いの予感があり、新しい発見がある。降り続ける雨を広い海原は優しく受け入れている。そんな海上を船は進む。人々は身を委ね、絶え間なく前進していく。古い記憶のような、冷たい波紋の印を背後に残して。たゆたう漣は、夢のような儚さを残して。


 港を沿うように伸びた工業用の道路を辿れば、古いトタンの倉庫がいくつか均整を保って連なっているのが見える。赤いトタンの倉庫があり、青いトタンの倉庫がある。それらは潮風にあたって錆ついている。築75年以上は経っているだろう、と通りすがりの妖精が教えてくれる。古びている、歴史が窺える、僕にだってそれくらいは分かる。
 海が見える。
 海に浮かぶ島々が見える。
 行き交う船、かもめ、雲、空。
 僕がずっと生まれる前にかつてそこにあった記憶。
 忘れかけていた港の風景、暮らし。
 そこに流れている緩やかな時間。
 

 倉庫の連なりの一角は改装されカフェになっている。一年前、同じく雨が降っていた夏、僕は友人とこのカフェに来たことがある。カフェの入り口には大きなツボが置いてあって、そこにはたくさんの傘が差し込まれている(大きなツボは傘立ての役割を引き受けている)。以前、僕はこのツボに傘を残して帰った。確か荷物をたくさん持っていたからだ、ささやかな後ろめたさを覚えながら僕は傘を忘れることを選択した。全く迷惑な話だけれども。
 水を払いツボの中に閉じた傘を押し込もうとした時に、僕はそれを思い出す。

『そういえば僕はあの時、この中にあえて、わざと、傘を忘れていったな』と。
『そういえばあの時も、雨が降っていたな』と。

 その突然現れた───記憶の引き出しのずっと奥深くに眠っていた───過去の思い出は、僕に軽い混乱を与える。すっかり忘れさられていた色の褪せた片方の靴下のような記憶が、突然光を放った。頭が少しくらくらし始める。それは(何故だかわからないが)すごく重要な発見のように感じる。聖書に挟まれた金の栞のように、それは僕に大切な何かを示唆してくれるかもしれない。

 あの時、僕が忘れていった傘はどんなカタチをしていただろうか?どんな色をしていただろうか。それは今もこの場所に残されているのだろうか? 

 もちろん、全く分からない。解無しの方程式を懸命に解こうとするように、その思考にある種の答えは用意されていない。ツボの中にはたくさんの傘が残されていて、僕が再びここに来るまでに誰かが使った傘が差し込まれており、僕が再びここを訪れるまでに誰かが忘れていった傘が差し込まれている。そして、その中に僕がかつて忘れていった傘が差し込まれているかもしれないし、取り除かれ、差し込まれていないかもしれない。全ては混沌に満ちている。
 雨は絶え間なく降り続けている。そうすることで混乱も曖昧さも自然なことだと肯定するように、あたりを濡らし続けている。頭が痛む。僕は今一人だ。雨が強く降っている。

 傘をツボの中に入れる。
 僕は考えている。
 あの時手放したものについて。
 そして今、再び手放そうとしているものについて。

 階段を登り、少し長い廊下を抜けカフェの中に入る。かつて倉庫だった空間。懐かしい思い出。五感が優しい刺激を迎えている。街のずっと遠く、港のもっと先の方から、優しい風が吹いて、僕の心の奥深い場所に小さなさざなみがたつ。

 帰り道。
 僕は傘を忘れないだろうか?
 例えば、雨が降っていたとしても、いなかったとしても。

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