できる限りその空洞をしっかり保って
「いやだ。
メロンソーダが飲みたかったのに。
それが無いから、代わりにアイスココアにしましょっていうのが好きじゃない」
沙羅(さら)はメニュー表を一通り眺めたあとにそう言った。僕と行動を共にして、ようやく発した言葉がそれだった。
沙羅の背景には深い褐色のレンガが敷き詰められていた。等間隔の繋ぎ目を沿うように視線を泳がせる。巧妙に貼り付けられた薄いレンガの壁紙。刺すように冷たい風が首のあたりに吹き続けていて、どこから風が出ているのかわからなかった。
「メロンソーダが飲める店を探す?」僕は聞いた。
沙羅は質問には答えずに、メニュー表を僕が見えるようにスライドさせた。ブラックコーヒーやアイス抹茶ティーなど商品名が書かれた横に小さな写真が親切に載せられている。彼女は一つ一つ指差しで確認していった。僕は指の腹に合成皮革のいやな絡みつきを感じながらメニュー表を支えていた。彼女は躊躇なくページをめくった。やはりメロンソーダはない。エメラルドの独特な透明色は見当たらない。
「店をかえよう。時間はいっぱいあるし」
沙羅は窓の外、緑道を照らす光に視線を数秒移し、それから僕の目を見つめるとコクリと頷いた。
車に乗り込むと彼女は黙ってシートベルトを閉め、眉間に皺をよせて難しい顔をした。そうすることが自分に与えられた使命であると言わんばかりに。それは、夏の太陽の日差しの強さのためか、それとも先ほどの小さな悶着のためか、見分けがつかなかった。
僕はエンジンをかけると車を夏の暑さの中、ゆっくりと泳がせた。ひどく喉が渇いていた。先ほどのカフェで水をもう少し飲めばよかった。空は澄んでいた。山並みの連なる稜線は空の青と綺麗に分かれていて、まるでパレットに出したっきり使っていない二つの硬い絵の具のようだった。
お盆の時期を過ぎているため人通りは少ない。年々自分がこの街に生まれたという事実を飲み込む事ができなくなってきている。家族や、親しい友人や、かつての旧友や、どんな人間に会っても心の底から親しみを感じることはない。青春や、挫折や、恋や、初めてはなんでもこの場所に揃っていた。大切にすることを簡単にこなせていた場所だ。それなのに。
ずいぶん会っていなかった親戚に顔を合わせ、世間話もそこそこに腰を下ろす暇もなく、白髪の本数が増えた叔母に沙羅と墓参りに行ってきてくれないかと頼まれた。沙羅は軽い夏風邪で、みんなが墓参りをしている時に留守番をしていたらしい。僕は断る理由もないので承諾した。(麦茶を2杯飲むと、沙羅は2階からとぼとぼと降りてきた)彼女を最後に見たのは確か一才にも満たないような時で、小さな白い布にサナギのように包まれた印象が最後だった。彼女は小学二年生になったという。
別のカフェに移動する前に、最後のお墓を参ることにした。(親族の墓は全部で三つあった)一つトンネルを抜けて、きつい坂を登り、山の斜面に区画された墓地に着いた。照りつける日光に熱された墓石に軽く水をかけ、水鉢に新鮮な水を張り、花たてに入った萎れた花を新しいものと取り替えた。マッチを擦り、蝋燭に火をつけ、線香に火を移し、合掌をした。
僕たちのいる山のずっと奥深くで野生動物の狩猟のための銃声が一つ鳴った。するとそれを合図に僕らは合わせていた手を離した。線香がゆっくりと燃え尽きていっている。ヒューヒューとトンビが鳴いた。風が吹いて線香の匂いが鼻を抜ける。沙羅は小さな息を一つ吐いた。それは過去よりは大きく、未来よりは小さい、そういう種類の声のない主張のように僕には聞こえた。
水の入った桶を僕が持つと、マッチや線香の入った小さなカゴは彼女が運んでくれた。銃声を聞いた後では、カゴの中で揺れるマッチのカタカタという音はやけに拡張されて聞こえた。
古びた民家の脇に車を停めた。比較的乱雑に並べられた石ころに車のタイヤが乗り上げる。木々の間をすり抜けた日光がフロントガラスを透過して、沙羅の横顔を照らしていた。
「さぁいこう」
彼女はこくりと頷く。民家の一つには小さな看板が立てかけてある。古くから続く喫茶店。ひどく喉が渇いていた。
木製の古く大きなテーブルが配された入り口の空間を抜け、店内の奥まった一角に座った。昨日切り取ったばかりのように生き生きとしたテーブルに冷たい水が二つ。深く腰の下ろせるソファの、扇風機の風がよく当たる側に彼女は腰を下ろした。
沙羅は店内の様子をチラチラとのぞいていた。メニューを見つめながら、時折こちらに視線を移しながら、あらゆるものが彼女にとって新鮮で、それを取り込んだり、吐き出したり、自分自身の世界を確立することに彼女は忙しいのだろう。僕は彼女のそんな挙動を眺めながら、自分がひどく歳老いた存在であるような気がした。手のひらを眺める。グラスから付着した水滴がすでに乾いている。例えばそういう視点から見ても。
僕らはカウンターで本を読んでいた店主に声をかけると「メロンソーダを二つ」。注文した。
メロンソーダは甘かった。喉のずっと奥、心の歪みに到達しようとする炭酸の刺激は心地よかった。すぐに喉が渇いて合わせて水を何杯も飲んだ。沙羅は大切にメロンソーダを飲んだ。両手でコップを握りながら、まるで砂漠の商人が口を潤すみたいに。
「さっきのことだけど。
僕は生意気なんて思わないな」
僕は懸命にメロンソーダを運ぶ沙羅を見つめてそう言った。彼女は不思議そうにこちらを一度覗くと、口を軽くすぼめて一通り思考をした様子をみせ、それから再びメロンソーダに集中した。『さっきのこと』それが彼女にとって何を指し示すのか、僕は彼女の解釈に委ねた。彼女の小さな手には水滴がいくつも滑っていた。
「水を入れますね」
店主が水の入ったポットを新しいものと変え、沙羅と僕のコップに注いだ。氷のカラカラという音が解けた調子で響いた。僕はすぐに口に水を運んだ。すごく喉が渇いていた。室内には小さな音でビルエヴァンス・トリオの音楽が流れていた。僕はその事実に、今、気がついた。あまりにその音色が自分の調子にしっくりとしすぎていたために、僕はピアノの音に今の今まで気が付かなかったのだ。それはあまりに奇妙な体験だった。不思議な心地だった。
彼女が再び口を開いたのは、ビルエヴァンスがピアノから両手を下ろしたのとほとんど同時だった。
「おじさんがねトンネルを潜ったっきり、消えちゃったんだ」
「トンネル?」沙羅はこくりと頷いた。
「いろんな色が混じって暗くって、沙羅が危ないよって言ってもおじさんは止まらなかった」
彼女の声は妙に拡張されて僕の鼓膜で震えた。僕は数時間前に山の中で聞いた銃声を思い出した。彼女の発言には何かしら、緊張を強いる、ある種脅迫めいた響きがあった。
トンネル?
「おじさんは帰ってこないの、それから。たまに、覗いて見てみるんだけどね。
帰ってこないの」
気がつくと、僕は車を運転していた。上質な皮で覆われたハンドル、心地の良い座席。僕の車ではなかった。助手席には女性が座っていた。
見知らぬ女性だった。
僕はハンドルを握りながら女性の横顔にチラリと視線をやった。夕暮れの赤い光が差し込んで茶色く映る髪が、やけに懐かしくなびいていた。僕はこの女性をどこかで見た事があるような気がした。でもそういう気がするというだけで、確信を持つことはできなかった。正体は分からなかった。女性はまっすぐ前を向いていて、こちらに顔を合わせることはなかった。僕はルームミラー、ドアミラーの順に視線を移した。後ろの席には誰も座っていない。僕と彼女の二人きりだ。車は山並みを走っていた。ハンドルをギュッと握りしめ山なみに沿って鋭いカーブを曲がった。ドアミラーに写っていた背景が絞られたように小さくなった。僕はしばらく縮んだり伸びたりする様々な景色を眺めながら、言葉を探した。しかし何を言えばいいのか分からなかった。口の中が驚くほど渇いていた。あれだけ喫茶店で水を飲んだのに。僕はおそらく緊張していた。唇を舐めると微かにメロンソーダの味がした。自分で運転しているのに、自分が運転しているという確信が持てなかった。手を離しても、このきついカーブを何か別の力がやり過ごしてくれるのではないかと思った。本当にそうしてみても良いかもしれない。例えそれが間違った認識であったとしても、、、
「着いていこうって思ったのよ」
「あなたがトンネルを抜けていった時、私もあなたの背中に追いつこうとしたの」
「でもそうしなかった」
彼女はそう言うと僕の左手首を握った。彼女の手のひらは驚くほど冷たかった。血管に直に触れられているような、刺すように冷たい感触が限りなく切迫してくる。僕はハンドルをきつく握り直して、カーブをうまく曲がりきった。レールの外縁には垂直に削り取られた奈落の底が、手をこまねいているように見えた。黒く極限の無い闇。落ちたらひとたまりもないだろう。
「いけないわ。ちゃんと前を向いて」
「わからないんだ」
「わからないはずないわよ」
「わからないよ。どうして、、、」
「ねぇ来年もまた帰ってくる?」
「もちろん」
「この街を愛している?」
「うん、愛しているよ」
「私のことは?」
「もちろん」
「その時までしっかりその穴を保っておいてくれる?できる限り今の形のままで」
「うん」
「約束よ」
「約束する」
曲がりくねった山並みを僕はすでに抜けていた。直線的な道のりが続いていて、視線のずっと先には絞られたように暗くなりつつある色彩の重りがあった。日の沈む赤や、山々の濃い緑や、蛍光や、夏の夕暮れの鈍い灰色が、一つの点を中心に黒く集合していた。
僕はその暗闇を目掛けて車を走らせた。
トンネルを抜けると、すでに空洞は僕の心の中に収まっていた。
暗く、果てしなく、終わりがなかった。