赤いフットスローが見た夢


─────────────────────
『パリの名所ムーラン・ルージュ、赤い風車の羽根が落下 』

 フランス・パリの観光名所にもなっているダンスホール「ムーラン・ルージュ」で25日、シンボルの赤い風車塔の羽根が落下しているのが見つかった。
 CNN提携局のBFMTVによると、店名の看板「MOULIN ROUGE」の文字のうち「MOU」の3文字が、落ちた羽根に当たって落下した。文字はその日のうちに交換された。パリ消防局によると、けが人の報告は入っていない。
 風車の羽根が外れた原因は不明だが、不正行為はなかったと総支配人は語り、羽根はすぐに元に戻すと説明。ホールでの公演は中止せずに続けるとしている。
 パリのモンマルトル地区で1889年に開業したムーラン・ルージュは世界的に有名なキャバレーで、赤い風車は開業時からのシンボルだった。
      2024.04.26 Fri posted by CNN
────────────────────

 ベッドからこぼれ落ちた赤いフットスローを眺めながら、僕は風車を失ったムーランルージュについて考えていた。僕がここに着く数日前に風車塔はそのシンボル的な羽根を失っていたということだった。
 その事実について、僕は昨日、二人組の女の子に聞かされて知った。一人は半袖のピンクのセーターを着ていたアルゼンチン人で、一人は青い長袖のスウェットを着ていたドイツ人だった。スウェットの腹部には白い花の刺繍がしてあった。僕は道に迷っていて、途方に暮れていた。とても。だから二人に話しかけないわけにはいかなかった。もちろん誰でも良いわけではないが、彼女たちに道を聞くのが適当であることは感覚的にわかった。二人にはかつて大学時代に寮で同じ部屋に住んでいたルームメイト特有の、おそらくは彼女たちだけにしか作り出せない雰囲気が漂っていた。僕はそんなことを(風車が落下したこと)まるで知らないから「ムーランルージュはどこにある?あの、赤い風車の……」と無神経な質問をしてしまった。ホテルはムーランルージュの近くにあった。拙い英語が通じたかはらはらしていると、やがて二人は首を振って落ち込んだ顔をした。それから顔を見合わせて「ムーランルージュに風車は無いけれど、道なら教えられるわ」とピンクの服の女の子が答えた。
 ムーランルージュに風車がない?
 青い服の女の子は貧弱な胸の形をしていて、もう一人は職場の一つ歳上の同僚に鼻筋が似ていた。同僚は貧弱な胸と必要以上に高い鼻をひどく憎んでいたから、僕は彼女について思い出さないわけにはいかなかった。「彼氏が私の胸と鼻を嫌っているのよ。これは他の女の子に比べたら小さすぎるし、これはフェラチオをやる時に彼のコンプレックスを刺激してしまうの」
「ふうん」と僕は答えた。色んな悩みがある。僕は彼女の鼻のカタチも、エジプトの壁画みたいにユーモアに満ちた彼女の胸のカタチも、嫌いではなかった。でもそのことについてはもちろん口にしなかった。第一に僕は彼女の恋人ではないし、第二に僕は胸が膨らんでいないことに対して苛立ちを感じる性を体験したことがない。そして、フェラチオを今の所したことがなかったし、これからするつもりも無かった。だから黙っておくことにした。
 彼女たちはとても親切だった。「とにかくムーランルージュに風車はないけれど、ここをまっすぐ進んで左、それからすぐに右、ほいでまっすぐよ」「あそこにコーラを売ってる露店があるでしょ、そこで曲がるの」「おっけい?」青いスウェットの女の子が初めに説明して、ピンクのセーターの女の子が情報を補填してくれた。メルシーと僕が言うと、彼女たちは顔を見合わせてから、にっこり笑ってありがとうと言った。何かを言う時に、彼女たちは顔を見合わせる愛らしい癖があるらしい。
 僕もありがとうと言って手を振った。
「ありがとうございます」
「ありがとうございます」
 ムーランルージュには確かに風車が無かった。


 ホテルで1時間ほど眠って目を覚ました。人々の汚れた靴を一身に受け入れ続けてきたであろう赤いフットスローはひどく色褪せてみすぼらしい。それはベッドの足元に落ちて、広がっている。長い間、フットスローを眺めながら、僕は数時間前の彼女たちとの会話を思い返していた。あるいは失われた風車とその歴史について考えていた。ううん、失われたという表現は間違っているな。『損なわれた』その表現がしっくりくる。それまで積み上げてきた時間が完全にそっくりそのまま奪い去られてしまうこと。その喪失について考えると僕は寂しくなった。厳粛な気持ちになった。彼女たちは、青い服の女の子とピンクの服の女の子は今何をしているんだろう。カフェに入って顔を突き合わせて、二人だけの秘密や、過去のあれこれについて語り合ってるのだろうか。あるいは二人だけにしか省察することのできない未知の喜びについて、その幸福について思いを巡らせているかもしれない。
 ずっとフットスローを眺め続けていると、どういう訳か、僕にはそれが何かの抜け殻のように見えはじめた。疲れているのかも知れない。抜け殻。セミやヤドカリや人間が置いてゆくもの。あるいは彫刻の権力者が脱ぎ捨てた羽織物。
 抜け殻。
「昨夜、君が見た夢。よかったね。
 もちろん覚えているだろう?」
 しばらくして、柔らかな抜け殻は僕に語りかけてきた。ほら、やっぱり僕は疲れているのだ。
「なあ、聞こえているのは知っているんだ。夢、昨日の夢だよ」
 夢?僕は昨夜、夢をみただろうか?うん、多分みたんだろう。そのことはなんとなく覚えている。でも、中身が思い出せない。壁が高すぎて、そこで何が起こっていたのか僕には見当がつかない。
「覚えてないよ」
「まさか」フットスローは驚いた顔をする。
 それで、僕はフットスローにもフットスロー的な表情や感情があることに少しびっくりする。
「本当に覚えてないっていうのかい!?」
「仕方ないじゃないか。昨夜はとても疲れていたし」
「ふうん」
「そうだ、昨日はエッフェル塔を見た。凱旋門も、それにオランジェリーに行った。モネを見て、ルソーを見て、モディリアーニを見た。ルソーは特によかった。生き生きとしていた。だから夢のことなんて考える暇はなかった」
「ふうん」
 フットスローは不貞腐れた顔をする。
「それに、夢を見たということを君が示唆したとして、必ずしも内容を覚えていないといけないわけじゃないだろう」
「もちろんそうだけど…
 それがとても幸福な夢だったということは覚えているね?」
「さぁ」
「幸せな人間だね、君ってやつは」

 僕は寝返りをうってフットスローに背を向けた。僕には知らないことがいっぱいある。知らないこと、そのことを責められるのは辛い。他の多くの人々はそうではないようだけど。
 小さな窓から差し込む朝日が部屋中を照らしている。色褪せた木枠と透明なヴェールの向こう側には、隣の建物の煙突が、新鮮な青い空へと覆い重なっているのが見える。ふんわりと浮かぶ淡い雲。人々の営み。
 僕は目を閉じた。そして、それから小さく折り畳まれた折り紙をひろげてゆくみたいに、窓の先の生活を想像することにした。僕は破いてしまわないように、丁寧にその紙を広げていった。試行錯誤された幾重もの折り跡は、さながら入り組んだ路地のよう。石畳の街並み、カフェの喧騒、ギロチンの悲鳴。大きな噴水にもたれる娼婦、白い制服を着た風船売りの少女、リボン付きのフェルト帽をかぶったテナーサックスの奏者。鳥たちはそよ風に身を委ね街を飛び回っている。綺麗に手入れされた芝生を越えて、柔らかな樹木に身体を預ければ、枝木の合間を埋めるのは海のように青い空。自然な流動とスケールの大きな高揚。僕の想像は、さながらマーラーの交響曲のようだった。

「昔、一人の大切な女性がいてね……」
 僕は背を向けたままフットスローに語りかける。
「言わなくていいよ。
 僕は何でも知っているからさ」
「本当に?」
「本当さ」
「ふうん」
 沈黙。
「一つだけ聞いていい?」
「もちろん」
「どうして僕らは旅に出るんだろう」
 ふふっと抜け殻は笑う。
「そのことについてだけは、教えられないね。自分で見つけなくちゃ」

 部屋の中にはいつの間にかクロワッサンの小気味いい匂いとエスプレッソの香りが満ちていた。顔を洗い、歯を磨き、シャツに袖を通し、五分だけ瞑想をした(どんな時も習慣を破るわけにはいけない)。ネクタイを締め、コートを羽織り、靴紐を結ぶ。急な階段を駆け下りて、急いで停留所へ。しかし定刻の時間を過ぎてもバスはやってこない。
「38番のバスはしばらくやってこないよ」ベンチに座っていた、ふくよかな男性が僕に教えてくれた。
「残念だけど」「理由は?」「わからない。でもやってこないんだよ」男性は右手につけた品のいいシンプルな腕時計をチラリと確認した。不思議と腕はほっそりとしている。彼はまったく焦っていない。ゆっくりと、ただ時間の中に浸っている。春の雪解け水のように、人知れず育まれてきた時間に彼は同化しているようだった。
「歩いていくことにするよ」
 しばらくして僕は語りかける。彼はにっこりと笑って、私は歩けないからねと言い、膨らんだお腹をさする。僕は自然な笑みを返す。
 さよなら。
 いい一日を。さよなら。
 石畳の道に足音が跳ねる。
 それらは心地よい刺激となって僕の身体を駆け抜ける。
「どこにいくんだ?」
 後ろから声がする。
「これからどこにいくんだい?」
 彼は手を振りながら、繰り返す。
「さあ、わからないんです」
「分からない?」
「答えは、赤いフットスローだけが知っているもんだから」

いいなと思ったら応援しよう!

この記事が参加している募集