枕の、くぼみ


 枕が窪んでいる。
 その窪みは僕がかつて失った人間の頭のカタチをしている。あの人がいないということを、その不在は雄弁に語っている。
 絵画における一見の空白が、時としてそこに潜む“何ものか”を刻々と浮かび上がらせるように、そこに存在しないということは時として巨大であり、圧倒的である。

 淡い月の光がするりと差しこみ、枕の上へ着地している。柔らかな光が窪みを優しく撫でつけると、やがてそれらは室内の沈黙に溶け込んでいく。
 枕は語っている。
『損なうということ』のその意味を。その言葉が指し示す本当の意味での喪失を。跡形もなく、失うと予期した以上のものを、ごっそりと奪い取られてしまう悲しみのことを。
 損なう以前と、損なってしまってからでは世界の成り立ちのようなものが明らかに変わってしまう。僕は知らなかった。様々な種類の孤独が、背後に大木の枝分かれのように行き渡っていたことを。その愛情が故に国が滅ばなくてはいけなかったことを。路地裏ではあまりにも容易く人の命が奪われていたことを。
 そして、ある意味ではそれは僕の責任ですらあることを。
 僕はずっと見過ごしていたのだ。


 無理やりに体を起こすと、ベッドが嫌な音を立てて軋んだ。暗い洞穴から冷たい獣が遠吠えたような、そんな音だった。
 一つ咳をした。その咳は妙に乾いて抑揚を欠いている。風は吹いていない。窓が閉ざされているからだ。四角い窓から差し込んでいた月の光の斜線は、僕が体を起こしたために、白い枕の少し先、木製のベットテーブルにその角度を変え、触れている。
 緊張の細い糸がベッドテーブルから浴室の電源スイッチあたりにかけて、ピンと張っている。光の加減でそれは時折姿を見せる。柔らかな蛹が生み出したような潤沢でしなやかな糸。
 僕はその糸を見て、チャールズ・ディケンズのある言葉を思い出す。
『人の心の中には、振動させない方がよい弦がある』
 全く、その通りだと思う。

 指先で糸の腹を撫でる。すると光の反射はささやかなものになる。指を離す。糸が震える。しかし音は聞こえない。もう一度、先ほどより強く糸をしならせ、指を離す。だが音は聞こえない。細やかな振動を繰り返すそれが、次第に落ち着いたものになり元の輝きを取り戻していく。そんな一連をただ眺めることしかできない。何度か同じことを繰り返す。結果は変わらない。

 彼女に会いたい、と僕は思う。
 彼女と会って話がしたい。
 色んなことがあった。
 本当に色んなことがあった。

 目元を指先で軽く押し込み、それからもう一度枕を見つめる。

 枕が窪んでいる。

 その窪みは僕がかつて失った人間の頭のカタチをしている。
 窪みを、手のひらで押し広げる。  
 白く、茫洋とした記憶にまかせて、
 枕が別の窪み方をすることを、僕は強く望んでいる。


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